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【書評】海に消えた沖縄漁師の「特異な死生観」

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【書評】『漂流』/角幡唯介・著/新潮社/本体1900円+税

【著者】角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)/1976年北海道生まれ。探検家・ノンフィクション作家。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学探検部OB。大宅壮一ノンフィクション賞など受賞多数。本書以外の近著に『旅人の表現術』(集英社)など。

【評者】鈴木洋史(ノンフィクションライター)

 書き手であると同時に探検家である著者は、以前から〈漂流者にたいするある種の畏敬の念〉を抱いていたという。大海での漂流ほど圧倒的な力の自然に無力な自分の運命を委ねざるを得ないという不条理はなく、その中で必然的に死と生を見つめるからだ。

 そんな著者は沖縄のある漁師に関心を持つ。1994年、自らが船長を務めるマグロ漁船がグアム近海で沈没し、彼は8人のフィリピン人船員とともに小さな救命筏で37日間も漂流し、ミンダナオ島近くで奇跡的に救助された。ところが、2002年に今度はミクロネシアの海で連絡が途絶え、今に至るまで行方不明なのである。

 著者は2つの漂流の詳細を関係者に取材すると同時に、漁師の出身地である宮古列島伊良部島の漁師町、佐良浜の郷土史を調べる。本書はそのノンフィクションだ。

 著者が書くように、佐良浜は実に興味深い土地だ。中世に日本列島各地で浄土を目指して船で大海原を目指す「補陀落渡海」という宗教的行為が行われたが、佐良浜漁師の祖はそれを行った僧だという伝説や、他の漂流伝説もある。

 古くから沿岸で漁を行い、素潜りの網漁に優れ、戦前に南方漁が始まると大挙して進出した。実は、戦前の南方漁で働いた日本人漁師のうち8割以上が沖縄出身で、その中心が佐良浜漁師なのだという。佐良浜にはそうした海洋民としての歴史がある。

 南方漁が全盛だった前世紀のある時期まで、佐良浜漁師は年のうちほとんどを海に出て、陸に上がったときには豪快に酒を飲み、女を抱いた。未知なる大海原への航海のように、読み進むうちに初めて知る事実が次々と現れ、辺境の地から見た日本近現代史としても非常に面白い。

 だが、素潜り漁は苦しく、同じく佐良浜漁師が得意としたダイナマイト漁も事故が多く、彼らはつねに死と隣り合わせだった。著者が佐良浜でちょっと取材をしただけでも、いくつもの行方不明船の存在が明らかになり、〈海という世界がもつ底暗い闇の奥深さ〉に暗然としたという。

 著者が探検や冒険を続けるのは日常生活の中で死が感じられなくなったからだというが、佐良浜では死は生のすぐ近くにある。それゆえ、〈死を恬淡とうけとめるような独特の死生観〉があるという。そう考えると、ある漁師の2度の漂流は、「補陀落渡海」以来の海洋民としての歴史の中で起きた、ある種宿命的な出来事のように思えてくるのである。

〈私が本村実(注・2度の漂流をした漁師)の漁師としての足跡をこれほどたずねまわったのは、このような不条理な海という自然にしばりつけられて生きてきた土地と人々の生き様に魅了されたからであった。と同時に、彼らにある種の妬みをかんじたからでもあった〉と、著者は書く。そこに〈人間の生き方の原型〉を見たという。

 私(評者)は冒険や探検の地、あるいは大海原だけでなく、平凡な日常にも死は見えない裂け目から覗いていると考えるので、著者の世界観に完全に同意するわけではない。

 しかし、単に関係者に話を聞き、資料を渉猟するだけでなく、体験的な乗船取材を行って少しでも漁師の世界を肌で知ろうとし、フィリピンを走り回って救命筏の残骸の切れ端まで入手するなどした著者の執念には感服し、また「極限」に憧れるある種のストイシズムにも好感を持つ。今まであまり読んだことのないテーマの、スケールの大きな作品であり、読み応え十分の傑作であることは間違いない。

※SAPIO2016年11月号

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