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認知症介護小説『その人の世界』vol.19

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物干し竿みたいな棒が二本、横に並んでいる。腰くらいの高さのそれは、どうやら伝って歩くためのものみたい。

「はい、立ってくださーい」
あたしの右側の脇に手を入れてきたのは、ちょっとがっしりとした感じの女の人だった。あたしはその人をちらっと見ようとして、でも動かなかった。

「立ちますよー」
女の人があたしの脇を持ち上げた。あたしの身体は羽が片方取れた飛行機みたいになって、ぐるんと傾いた。
「いてててっ」
思わず声がもれる。
「ほら、ちゃんと立ってくださーい」
あたしをどすんと座らせると、女の人は「まったく……」と呟いた。

「ほら、立ってください。立てないと歩けないし、歩けないと困りますからね。次の人も待ってますよ」
あたしを見下ろした女の人の声は必要以上に大きかった。誰に聞かせたいのかよく分からないけれど、そんなこと言われてもあたしは困る。だって、何のために歩くのか分からないし、歩いてどこに行くのかも分からない。

「今度は立ってください。立ちますよー」
女の人はあたしの脇を持ち上げた。そうするとあたしはまた、さっきのようにどすんと座らされることになる。これをあと何回やる羽目になるのだろう。

「もうっ」
一段と声を張り上げた女の人は、あたしの前に仁王立ちになった。あたしは逃げ出したくなった。今のあたしが歩くとしたら、その目的はここから逃げることしかない。

「ニンチだから指示が入らない」
誰にともなく言い放った相手は、ほかの数人の老人を見渡した。
「じゃあ、芝田さんは最後にしましょう」
女の人はあたしの座っていた椅子を後ろから押して動かした。あたしの次に待っていたみたいなおじいさんは、女の人に言われるままに棒に掴まって歩き始めた。女の人は「そうそう、すごいすごい」とおじいさんを褒め、おじいさんはまんざらでもなさそうに顔を赤らめた。

このおじいさんは褒められたくて歩いているのかしら。女の人がどんなに偉い人なのか分からないけれど、あたしにとってこの人は先生でも家族でもない。そもそもあたしだって、座っていたいわけではない。農家に生まれ、農家に嫁ぎ、それこそ座る暇もないくらい働いてきた。今だって、やることがあればいくらでも動き回って、人の役に立ってみたいけれど。

それよりあたし、おしっこがしたくなってきた。だってこの部屋、すごく寒いんだもの。それなのに半袖よ。

あたしはトイレを探そうとして立ち上がった。すると女の人がすぐさま大きく目を開いてこっちを見た。
「ちょっと、芝田さん! 立たないでください!」

女の人は歩いていたおじいさんを座らせると、駆け足であたしの方へ寄ってきた。
「どうして立つんですか? 座っててください!」

女の人はあたしの両肩を押さえて座らせた。目を三角にした女の人が、あたしにはすごく嫌な人に見えた。あたしは言った。
「あなた、いったい何がしたいの?」
「はい?」
「あなた、いったい何がしたいの?」

額に玉のような汗を浮かべた女の人は、あたしを見下ろしたまま言葉を失っていた。あたしは続けた。
「あたしはあなたに言われなくても立つし、言われなくても座る。それはあなたには関係ないでしょう」
あまり大きく声が出なかった。けれど黙ってもいられなかった。
「あなた、あたしのことバカにしてるでしょう。自分の方が偉いと思ってるでしょう。あたしがどうして立ったのか、あなたに分かってほしいと思わない」

最後ははっきり言えた。女の人は驚いたような顔をしてあたしを見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「芝田さん、お話ができるんですね」
あたしの前に膝をつき、女の人は声を落とした。
「芝田さんの言われる通りです……」

女の人は肩を持ち上げ、シャツの袖で額の汗を拭った。
「あまりにも忙しくて、自分の都合ばかり考えていました。この中で自分が一番偉いような気持ちになっていたと思います……」
女の人のこめかみから汗は流れ続けている。
「もし良かったら、どこに行きたいのか教えて頂けませんか。私でもご案内できるかもしれません」

この人、本当は悪い人ではないみたい。あたしは指先で相手の汗を払ってやった。

「……おしっこ」
あたしが言うと、女の人はその言葉を噛みしめるように笑顔を見せた。
「分かりました。歩いて行ってみましょうか」

女の人があたしの手を取った。あたしは震える膝で立ち上がり、初めの一歩を出した。

※この物語は、著者の介護体験をもとに介護施設での場面を描いたフィクションです。

あとがき

機能訓練とうたいながら虐待に見える場面を目にしたことがあります。介護現場では「立たないで」と言いながら、機能訓練になると「立って」と言う矛盾に支援者は気付いているのだろうかと、わたしはよく首をひねります。認知症状態における機能訓練では、自発性を引き出すことを最も大切にしたいとわたしは考えています。そのためのアプローチには、関係性の構築は欠かせませんね。

また、「指示が入らない」という言い回しもよく聞きますが、そもそも指示は「入れる」ものではありません。そしてそれは「認知症だから」という理由でもありません。ましてや「ニンチ」ではなく「認知症」です。相手のせいにする前に、まずは自分が伝わる手段を適切に用いたのかどうかを振り返る必要があります。

わたしは、気の進まないことが待っていると腰が重くなります。逆に、楽しみなことや大事な用事があると素早く行動することがあります。今回の主人公はトイレへ行くために立ち上がりましたが、人が行動する理由はもちろんそれだけではありません。活き活きと暮らせるために、誰にとっても目的というのは大事だなと思います。そしてそれが人の役に立つためならばなおさらであると、わたしはお年寄りたちから教わってきました。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症状態であってもなくても同じです。認知症の理解を得るために、物語の力をわたしは信じています。

この記事を書いた人

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。

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