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岡田武史とW杯「最後まで責任を取りたいと思います」

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9月1日(木)からいよいよスタートするサッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日系列で地上波生中継)。数々のドラマが生まれたW杯最終予選を、当事者たちと振り返る。そんなW杯最終予選で“歴史を変えた”ひとりが、オカちゃんこと岡田武史さんだ(前編記事はこちらから)。

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将来、自分が代表に関わるなんて思ってなかった。

「何にも覚えてないんだよ。実はこの約20年の間、試合の映像は1回も見てなくて。この間、テレ朝さんに見せられたのが初めて。番組作るうえで“ジョホールバルのホテルの部屋ってここでしたか?”って映像見ながら聞かれたんだけど、わかるかい! そんなもん(笑)」

自身、最大の転機だという。1997年、フランスワールドカップのアジア最終予選での日本代表監督への就任だ。コーチとしては、95年に日本代表に参加している。ドイツ留学の成果が出て、面倒を見ていたジェフユナイテッド市原のサテライトチームがメキメキ実力を伸ばし始め、岡田さん自身、非常に充実した日々だった最中のことだ。

「楽しかったから行きたくなかったんだよ(笑)。ドイツで監督と選手の立場の違いを痛感して、主語でいうと監督は常に“we”、でも選手は“I”。そんな違いを理解して始動したらうまく回り始めてたんだけど、新しい勉強かなと思って、受けることにした」

1993年10月28日、いわゆる「ドーハの悲劇」。94年アメリカワールドカップのアジア最終予選、カタール・ドーハのアルアリ・スタジアムでのイラク戦後半ロスタイムに、サルマンのヘディングシュートがGK松永成立の頭上を越えて決まった瞬間、日本のワールドカップ初出場の夢は潰えた。その時岡田さんはNHK衛星放送のスタジオで解説として控えていた。

「みんな、岡田さん泣いてた、って言うんだけど、泣いてないからね(笑)。言葉に詰まっただけ。本当にあの時、ワクワクしてたんだ、こいつらすごいことやりやがったなと。俺たちの世代にとってワールドカップって夢の舞台で、現実味なんてまるでなくて、そこにとうとう出る日が来たんだ! って興奮しきってた。大道具さんがくす玉を用意して“中継がスタジオに戻ったら引っ張ってください”って紐を持たされて。それがアレヨアレヨと言う間に撤収。“紐から手ぇ離して!”って強めに言われて、くす玉片付けた後“4秒で(スタジオに)戻ります!”って(笑)」

スタジオでの岡田さんは「アジアで日本は10回戦ってようやく5回勝てるレベルまできた。それを我々は次に向かっていかないといけない」と、切々と語った。次は俺が指導者としてリベンジしてやるという(結果的にはそうなったのだけれど)意識はなかったのだろうか。

「そんなことは何も考えてなかったよ(笑)。将来、自分が代表に関わるなんて思ってなかった。自分の原点として、日本人がどうやったら世界と戦えるんだろうとはずっと思ってたけど、現実に自分がやれることは想像の範囲内でしかないじゃない。その時は、せいぜいいつかJリーグの監督をやりたいなって思ってたぐらい」

それが、97年にはワールドカップアジア最終予選の途中に加茂監督解任という衝撃の展開。まさにカザフスタンからウズベキスタンへの移動の過程で発表になり、加茂さんからの連絡を受けて岡田さんがチームを受け継いだ。最初は1戦だけのつもりだったという。

「この前、井原(正巳)に会ったら、『岡田さんに変わってからの1週間ほどきつい練習はなかった。試合の時に動けなかったら、岡田さんの責任だってみんなで言おうって言ってたんです』って(笑)。俺はそんなにきつい練習した覚えないんだけど、みんなが必死にやって、ウズベキスタン戦に引き分けた。最後にあんなラッキーなゴールが入るのを見て、“この感じなら勝ち抜けるかもしれない”って記者会見で言った後、ロッカールームに戻ったらみんなわんわん泣いてた。あの冷静なモト(山口素弘)まで。そこで心底わかった。こいつらもどうしてもワールドカップに行きたいんだなと。こいつらを投げ出して俺がチームを離れるわけにはいかないな、って。それで日本に帰って加茂さんに、“僕、最後まで責任を取りたいと思います”って告げたんです」

初のワールドカップ後は「やりたいようにやる」。

そして迎えたジョホールバル。

「当時、普通に電話帳に自宅載せてたし、脅迫状・脅迫電話が止まらずパトカーに24時間守られてるような状態だった。最後、ジョホールバルからカミさんに電話して、明日負けたらしばらくみんなで海外で暮らすぞ、ぐらいのことを言って。でもその後に、ある境地に達したんだよね」

遺伝子にスイッチが入ったという。当時読み漁っていた本の中にあった、生物学者・村上和雄の唱えた説を、岡田さん、実感したというのだ。氷河期とか飢餓期とか、人類はハードな歴史を生き延びてきたはずなのだ。その時には、それを乗り切るだけの力を出し、のちに伝えてきたに違いない。普段の生ぬるい日々では決して得られない感覚。それが「遺伝子にスイッチが入る」ということ。

「もういい、と。自分は今持ってる力を出す以外にできない。すべてを出してダメだったらしょうがない。自分の力が足らないことは謝るけど、それ以上は俺を選んだJFA(日本サッカー協会)の会長のせいだと(笑)。そう思った瞬間、完全に開き直った。怖いものがなくなった。後から思えば、あれってスイッチが入った瞬間だなと思ったんだよ。あそこから自分の人生は変わったという感覚があるよ。どう見られるとか、他人にどう思われるとかは、ホントどうでもよくなった」

岡田さんはその後、コンサドーレ札幌をJ1に昇格させ、横浜F・マリノスの2年連続優勝を実現し、改めて日本代表を率いてワールドカップ南アフリカ大会ベスト16に進出。求めれば、悠々自適な日々を過ごせるはずなのだが、中国スーパーリーグ杭州緑城を率い、今はFC今治の監督ではなくオーナーでありCMO(チーフ・メソッド・オフィサー)として、サッカークラブをベースにした新しい街づくりに着手している。

「とにかくフットワークが軽いから行っちゃうんだよね。やり始めたら実は大変で、もうやめようって思うこともあるんだけど、気づくと人と金が付いてきて盛り上がっていてやめられないというパターン。みんなにいつも“なんで苦しい道を選ぶの?”って言われるんだけど、面白いことがしたいだけなんだよ。気づいたら、前に行くしかないことになってる。自分が楽しいかどうかしか考えてなくて、俺、今年でもう60なんだけど、いい歳こいてこんなことやってる場合じゃないよね、ってことばっかりしてる(笑)」

■インタビュー前編はこちらから
■R25「サッカー日本代表」特別インタビュー特集はこちらから

武田篤典(steam)=取材・文/稲田 平=撮影

■サッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日)
10月6日(木)日本vs.イラク
10月11日(火)オーストラリアvs.日本

川平慈英&中山雅史がW杯アジア地区最終予選の思い出の名シーンとリンクするスペシャル映像も要チェック。


(R25編集部)

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※コラムの内容は、R25から一部抜粋したものです
※一部のコラムを除き、R25では図・表・写真付きのコラムを掲載しております

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