「怒り」と「暴力性」の神話、「イノセンス」の希求

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「怒り」と「暴力性」の神話、「イノセンス」の希求

 ハーラン・エリスンはアメリカSF界にそのひとありと知られるカリスマ的存在で、先鋭的な作品と本人の過激な言動によって多くのファンを集めている。日本では伊藤典夫さんの紹介によって比較的早くからその名は知られていたが、作品そのものの翻訳はなかなか捗らず、本書が日本語で読める二冊目の短篇集だ。一冊目の『世界の中心で愛を叫んだけもの』邦訳が73年なので、なんと四十年以上もあいだがあいてしまった。収録されている十篇は、いずれも〈SFマガジン〉〈ミステリマガジン〉もしくはアンソロジーで既訳のものだ。

 エリスンがSFを書きはじめたのは50年代半ばからだが、頭角をあらわしたのは60年代半ばからで、そこから70年代にかけてはSF賞の常連だった。彼の作品がSF読者から強く支持されたのは、いっけん斬新に見えてじつはエモーショナルにわかりやすい物語だったからだろう。ひとことでいえば「怒り」や「暴力性」である。

 アメリカSFの潮流はけっして単線ではないが、大きなくくりでみると40年代から50年代にかけては人類や社会という巨視的な観点が持ちこまれることが多かった。かならずしも個人がスポイルされていたわけではなく、ひとりひとりの問題も巨視的なテーマと齟齬することなく扱われたのである。しかし、60年代以降は個の観点に重点がおかれるようになり、それはおうおうにして巨視的観点へのアンチテーゼのかたちをとった。

 アーシュラ・K・ル・グィンのように理性的なアプローチで個と集団が両立する地点をさぐった作家もいるが、エリスンは思いきり個へ振ってしまう。

 本書冒頭に収録された「「悔い改めよ、ハーレクィン! 」とチクタクマンはいった」は、時間がキメ細かく管理された未来社会が舞台だ。遅刻したぶんだけ金銭的報酬はもちろんのこと、寿命すら削られるペナルティが科せられる。そんな息苦しい社会に、謎の道化師(ハーレクィン)があらわれ手を変え品を変えていたずらを仕掛け、世の中の時間を擾乱する。この構図そのものは、少しも新しいものではない。人間を型にはめるディストピアはSFの古典的テーマのひとつである。しかし、この作品のハーレクィンが理想に燃えた社会改革者などではなく、憂さ晴らしをするオッサンみたいなところが面白い。ヒーローというよりトリックスター。自動走路いっぱいに撒き散らされたゼリービーンズなんて、想像するだけで愉快だ。

「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は、意識を持ったコンピュータが世界を席巻し、わずかに生き残った人間がコンピュータの内部でなぶりものにされている。コンピュータは自分をつくった人類への復讐心に燃え、生き残った人間たちは絶望的な状況のなかでコンピュータへの怒りだけが生きるよすがになっている。

 表題作「死の鳥」は、神の周到な戦略によって悪の烙印を押された蛇が臥薪嘗胆の二十五万年を経て、いよいよ神に一矢報いようとする。神にたぶらかされつづけた人間の解放でもあるはずだが、そもそも地球自体がすっかり荒廃し(おそらく)生き物が住める環境ではなくなっている。蛇は地中深くに選びぬいた人間ネイサン・スタックを眠らせておいた。そのスタックが唯一の味方だ。そして、いよいよというときまで使うことのできない最終的な武器が〈死の鳥〉である。

 創世記の時代から遠未来までまたがるタイムスパン、文体が異なるテキストをモザイク状につなげた構成、神話性と卑近な要素の混在……きわめて技巧性の高い作品だが、もっとも印象的なのは、荒涼とした地平を進む蛇とスタック、その上空で象徴的に翼をさしかける〈死の鳥〉のイメージだ。

 以上の作品は、外形的にはケレン味たっぷりの華麗な小説だが、根底にあるのは虐げられた者たちの「怒り」や絶望から転じた「暴力性」であり、それは多くのひとにとって共感できる感情だろう。エリスンはスタイルこそ先鋭的だが、作品を駆動させているのは大衆的なエモーションである。

 それを前提としたとき、この短篇集のなかでいささか異彩を放つのが「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」と「ジェフティは五つ」だろう。

「ランゲルハンス島沖を漂流中」(正式題名は長いのでこう略す)については、訳者の伊藤典夫さんが「エリスンの魅力の一つであるむんむんするような熱気が、この作品に限ってはなかなか表面にあらわれず、それを解放する糸口をさがすのに苦労したおぼえがある」と述懐している。この感想のなかでとりわけ目を引くのが「解放する糸口」という言葉だ。伊藤さんは表面にはあらわれないものの、むんむんするような熱気は確かにあると思っている。そして、それは解放されるべきものなのだ。伊藤さんは(そして、おそらくエリスン・ファンの多くは)カタルシスを期待している。

 もちろんカタルシスをもたらす小説は古今東西たくさんあるが、メロドラマや勧善懲悪式の冒険小説はフォーマットができあがりすぎていて読者に見透かされてしまう。オリジナリティや強度が必要であり、その点でエリスンはハイレベルに達している。

 もっとも「ランゲルハンス島沖を漂流中」だとレベルを上げすぎて、伊藤さんをして「糸口をさがすのに苦労」するほどになっている。冒頭に置かれているのは「ある朝、モービイ・ディックが不安な夢から目ざめると、海草のベッドの中で自分がひとりの巨大なエイハブに変っているのを発見した」という、パロディめいた文章。これにつづいて、けだるい日常が描かれる。目ざめた主人公—-どうやら実際にエイハブになったわけではなさそう。また、もともとモービイ・ディックでもない—-は、ティーポットに水を入れ、顔を洗い、玄関口から新聞を拾いあげる。ただひとつ異様なのは、台所におかれた水槽のなかの怪魚だ。以前はほかの魚もいたのだが、すべてこいつに殺されてしまった。水槽の支配者となった怪魚は、いくらぞんざいに扱っても平然としていて死ぬ気配すらない。

 そのさまに、主人公は「抑えがたいほど激しい憎しみ」を覚える。しかし、その感情は直接の暴力や破壊にはつながらない。主人公がこの死なない魚を憎むのはいわば同族嫌悪だ。彼自身の素性はストーリーが進むにつれておいおい明らかになる。エリスンはわかりやすい説明などせず、手持ちの札を順番に開けるように語るので、眩惑される読者もいるだろう。察しの良い読者ならばほどなく(水槽の場面の二ページ後、主人公の名前がロレンス・タルボットと示されたところで)気づくが、そうでない読者は終盤まで首を捻りっぱなしになる。

「怒り」や「暴力性」についても同様で、いったん最後まで読んだあとに読み返せば物語のところどころに細かな兆候が潜んでいることに気づくが、初読時には見すごしてしまう。これから読むかたのために詳述は避けるが、ひとつだけサンプルを抜きだしておこう。タルボットのベッドの頭板の金属部分にしっかりと留められた手枷に、血まみれの髪の房がこびりついている。

 物語はめまぐるしく転調し、ときにコミックブック、ときに超現実的、ときにフィルム・ノワール、ときにゴシックロマンス、さらには本格SFまがいの意匠や雰囲気すら投入される。いっけん脈絡のない物語にも見えるが、それがひとすじに結ばれているのはその芯に「探求」があるせいだ。タルボットは自分の魂にたどりつこうとしており、それを題名の「北緯38度54分、西経77度0分13秒」「ランゲルハンス島沖」が象徴している。ちなみに経緯度で示される現実の場所はホワイト・ハウスであり、ランゲルハンス島はごぞんじのように地理上の島ではなく人体器官(膵臓のなかの部位)だ。タルボットは極小化した分身をつくりだし、自らの体内へと赴く。その旅のはじまりが、この作品でもっとも「怒り」「暴力性」があらわになる場面かもしれない。

 アウトサイダー。おとなになってからの人生をずっとアウトサイダーとしてすごしてきたタルボットだが、今では憤怒がそのままでいることを許さなかった。鬼神の決意をもって肉を引き裂くうち、ついに薄膜は破れ、彼自身の中へ通じる裂け目がひらかれた……。

 極小化して人体内を旅する展開はまるで映画『ミクロの決死圏』だが、エリスンがここで描く体内はフィジカルなものではなく、タルボットの意識—-失われた過去だ。伝統的なSFのコンテクストに沿ってみれば「外宇宙」の対照項としての「内宇宙」といってもよい。ただしJ・G・バラードが提唱した「現実の外世界と精神の内世界が出会い、融けあう領域」というよりも、もっと古典的な精神風景だが。

「ランゲルハンス島沖を漂流中」はその絢爛たるスタイルで読者を翻弄するが、タルボットが見つける魂の真実は非常にナイーヴなものだ。それをノスタルジーといってしまえばそれまでなのだが、エリスンのエリスンたるところは静止した想い出にひたるのではなく、現在の生とダイナミックに結びつく躍動感である。そこにも「怒り」が介在する。

 タルボットの魂の探求は、失われた過去を取り戻す行為だった。彼自身の観点では過去は不当に奪われたのであり(それが先に引用したアウトサイダーの感覚にもつながっている)、それが怒りを正当化する。タルボットだけではない。彼は体内への旅の過程で、同じように不当に過去を奪われた女性マーサ・ネルスンと出会う。もしかすると、そのときはじめて会ったのではなく、旅の前に出会った女性ナジャと同一人物かもしれない。あるいは彼の母親であってもおかしくない。この作品に登場する人物たちは、近代的な個人というよりも神話的な祖型(モービイ・ディックやエイハブがそうだったように)なのだ。タルボットは、マーサ・ネルスン/ナジャ/母親の無意味に消費された人生を巻き戻そうとする。

「ジェフティは五つ」も怒りがほとんど前面に出てこない。そして、これもまた過去の記憶と深く関わる物語だ。語り手のぼく(ドナルド・H・ホートン)には、仲の良い友だちがいた。名前はジェフ・キンザーだが、遊び仲間はみなジェフティと呼んだ。ぼくは五つのときニューヨーク州の叔母の家に預けられ、七歳になってまた故郷の町に戻ってきた。まっさきにしたのはジェフティを探すことだ。ジェフティはいた。五歳のまま、少しも変わらずに。ぼくは十歳で軍隊式の私立学校に入れられ、十八でカレッジに進学する。そうした人生の節目節目で故郷から離れたが、しばらくするとまた戻ってきた。そのたびにジェフティと再会するが、いつでも彼は五歳のままだ。ぼくは二十二でソニーのテレビのフランチャイズ店を開いて、町に腰を落ちつける。ときおりジェフティを訪ね、一緒に映画に出かけたりする。二十二歳のぼくと五歳のジェフティ。

 ジェフティが五歳のままというのは発達障害ということではない。体格がまったく変わらず、関心が五歳児らしい範囲のままなだけだ。時間が止まっている。だからといって、ぼくはまったく気にならない。ジェフティのことが気に入っているからだ。

 しかし、やがて不思議なことが発覚する。ジェフティの部屋のラジオでは、いまだに五時半になると〈キャプテン・ミッドナイト〉が聞こえてくるのだ。1950年に最終回を迎えたはずなのに。再放送ではなく、新しいエピソードがいまもつくられているのだ。しかし、その放送はほかのラジオでは聞くことはできない。ジェフティはオバルチン(番組スポンサーの飲料メーカー)の壜についていたシールを送って、キャプテン・ミッドナイトの秘密暗号解読バッジを手に入れた。新品だ。そんな景品はもうつくられていないはずなのに。

 ジェフティの身のまわりにある少年時代に夢中になった番組、玩具、菓子、コミック、パルプ雑誌、あらゆる興味の対象。エリスンはそれをたんに「懐かしい」ものとして扱うのではなく、まさに少年がそれらを当たり前のものとして享受している、その感覚ごと描きだす。そこだけを取りだせばレイ・ブラッドベリと見まごうばかりだ。

 しかし、ジェフティの時間が止まっていても世界の時間は動いていて、そのあいだの不調和はどうしようもない。ジェフティ自身はそれに気づくことがないが、ぼくは(ジェフティに終始寄り添いつつも)自分の仕事や人生をこなさなければならず、ジェフティの両親は疲弊して息子に対するわだかまりを募らせていく。

 ぼくは「ジェフティは、世界がその進歩の過程で失った、過去の無限の快楽と歓喜をうけとる端末器なのだ」と考えるが、それは永遠を保証しない。

 儚(はかな)いものへの哀惜、なにものにも干渉されぬイノセンスの希求。それらはエリスンの怒りや暴力性と背中合わせのように思える。

(牧眞司)

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