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田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」【後編】

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 田中角栄・元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。

 国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。

 7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議長秘書を勤めていた平野貞夫氏(元参院議員)が振り返る。

「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」

 そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。

〈立ったままの喜多村が、切り出した。

「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」

 喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉(前掲記事より、以下同)

 天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。

〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」

「何を注射するのですか」

「フェノバールとセルシンだ」

 いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。

「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉

 止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。

 国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断されたのである。

 平野氏がいう。

「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」

 そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘する。

「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。私は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。

 つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。医師団派遣はいわば機密事項だった。にもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」

◆「得をしたのは誰だ」

 もし児玉喚問が実現していたら、ロッキード事件は違った方向に展開していた可能性がある。丸紅を通じて角栄氏が受け取ったとされるのは5億円。一方、児玉ルートには21億円が流れたとされている。平野氏が続ける。

「児玉氏の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中さん一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし当局が児玉ルートにも切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根氏だったはず。私は告発記事を読んだ後に天野医師と会って話したが、児玉氏の主治医だった喜多村氏は、その後、“中曽根氏の主治医”を名乗るようになったと証言している」

 事件発覚当時から、角栄氏の逮捕に至る流れは、政治的な思惑のある「国策捜査」ではないかとの指摘がされていた。米議会公聴会で疑惑が出た直後の1976年2月9日に当時の三木武夫・首相は、与党内に累が及ぶ疑惑であるにもかかわらず、「なすべきことは真相の究明」と言明。権力側が政界ルートの捜査を検察に促す“逆指揮権”が発動したともいわれた。

 そして結果として、三木首相と党内で対立する角栄氏に追及の矛先が向かった。その三木政権を幹事長として支えていたのが中曽根氏だった。

 角栄氏が1976年8月に保釈されると、田中派をはじめとする自民党内の反主流派6派閥が一気に「三木おろし」の逆襲を始め、その際に政権サイドについたのが三木派と中曽根派だけだった。当時、自民党内で壮絶な権力闘争があったことは間違いない。

 そして時は流れて平成の世になり、2008年に秘密指定が解除された米公文書に、中曽根氏とロッキード事件を結びつける記述が見つかっている。

〈ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があった〉(2010年2月12日付、朝日新聞)

 中曽根事務所は平野氏の指摘、米公文書の記述について、「ノーコメント」とするのみ。平野氏が続ける。

「田中さんは物的証拠がないまま、証言だけで有罪になった。政治、捜査機関、司法当局、そしてメディアによって、“田中有罪”という世論の大合唱が作り上げられていった」

 なぜ、ロッキード事件では結果的に角栄氏だけが狙い撃ちされたのか。

 1972年9月に角栄氏が米国の意に背いて日中国交正常化を実現させ、同時に台湾との国交を断絶したことでホワイトハウスが激怒した―といった「米国の虎の尾を踏んだ説」も根強くある。それを裏付けるような機密解除された米公文書の存在も報じられている。平野氏がいう。

「“虎の尾論”は一面の真実をついているでしょう。ただ、私にできるのは、『対米追従シンドローム』に侵された日本の権力者たちが、田中角栄という政治家を葬ったということを論証すること。それが使命だと考えているから今回、『田中角栄を葬ったのは誰だ』を改めて出版した。事件から40年を機に、国民に目を見開いてほしい」

 真実は、どこにあるのか。

※週刊ポスト2016年8月12日号

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