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歌手・山川豊「半農半漁で一家支えた海女の母の姿が今も残る」

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「孝行のしたい時分に親はなし」といった言葉があるが、子にとって母の愛のありがたみは、失ってみて初めて気づくことが多いだろう。「瞼の母」の思い出を、歌手の山川豊(57)が語る。

 * * *
 父は漁師、母は海女。三重県鳥羽市の海沿いの小さな港町で生まれ育った。道路が通じておらず、移動手段は1日3便の巡航船。雑貨店があっても、海が荒れると食べ物も届かない辺鄙な場所です。

 半農半漁で、おふくろは朝5時に起きて田んぼに出掛けていた。そして、9時には海に潜り、アワビやサザエを捕った。海から上がると再び田んぼに出掛け、日が暮れるまで働いた。

 海女が息も絶え絶えになって酸素を求めて水面に上がった時にピーッと鳴らす呼吸の音を磯笛といいます。体の奥から発せられる悲鳴のような音を僕はいつも聞いていた。おふくろは痩せていたので、重りに大きな石を抱えて潜っていました。命綱をつけ、合図があると引き揚げる。船の上の親父がその役目だった。

 ところが、酒を飲んでいると合図を見過ごしてしまうことがある。僕が何度も親父を揺すって引き揚げさせたのを覚えています。親父はアワビが捕れないと「もっと捕ってこい」と頭を竿で叩き、おふくろはまた潜る。捕れない日は家に帰ってからも親父が荒れた。

 月1000円の給食費にも事欠き、おふくろが親戚に頭を下げて借りてくれたこともあった。そんなおふくろから親父はバクチの金を奪っていった。幼少時代にそんな尋常でない貧困生活をしながら、早く一人前になって稼がなきゃという思いでいっぱいだった。

 兄貴(鳥羽一郎)は僕や妹たちを高校に行かせようとマグロ船に乗ってくれた。海に出ると1年近く帰ってこなかった。兄貴にはいまだに頭が上がりません。

 親父は僕に競輪選手やボクサーになれといっていたが、試しに受けたオーディションに合格して歌手を目指すことになった。兄が1年遅れで歌手デビューしたが、おふくろは何も変わらず70歳まで海に潜っていた。

「みんなに可愛がってもらえよ」というのが口癖で、ファンが実家に訪ねて来ると家に上げてお茶を出していた。鳥羽一郎のファンと聞くと「山川豊もよろしく」といったそうだ。

 コンサートに招待しても、第一声は「行きたくない」という。来てくれても客席で黙って下を向いている。僕が歌詞を間違えないか心配だったそうだ。紅白歌合戦の出場歌手発表の季節にはお百度参りをしてくれた。おかげで、兄弟揃って9回も出場できた。それでいて、「うちだけで2人分も出場枠を取って申し訳ない」と頭を下げるような人だった。

 母も歌が好きでカラオケにもよく行った。兄貴の『兄弟船』と『海の匂いのお母さん』は歌ったが、歌謡曲が多い僕の歌は嫌いだったそうだ。それでも僕の『しぐれ川』を歌ったと聞いた時は涙が止まらなかった。

 母は認知症にかかり、3年ほどして僕たち兄弟のこともわからなくなったが、親父のことだけはわかった。あんなに苦労させられても、親父のことを慕っていたのだろう。親父も罪滅ぼしだと最後まで介護をしてくれた。

 デビュー35周年を迎え、7月20日に記念アルバムを出すが、おふくろのことを歌った曲も入れることができた。天国で聴いてほしい。

●やまかわ・ゆたか/三重県生まれ。1981年に『函館本線』でデビューし、新人賞を総なめ。7月20日に「35周年記念ベストアルバム」が発売。

※週刊ポスト2016年7月22・29日号

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