『千日の瑠璃』26日目——私は牛乳だ。(丸山健二小説連載)

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私は牛乳だ。

長い停電のせいですっかり腐ってしまい、もう飲めなくなった、地元産の濃い牛乳だ。ところが世一は震える両手で壜をつかむと、むせないように気をつけてぐっと飲み、半分残して窓辺に置いた。汚ない胃袋に流しこまれた私は、ここ一両日中に爆発的に増やした命取りにもなりかねない菌をぶちまけてやり、他方、壜に残った私は陽光をいっぱいに吸って、一段と危険な毒の製造に励んだ。

私は思った。世一のような、出来損ねた弱過ぎる生き物にとって、私こそが似合いの飲み物ではないか、と。無価値な者と無価値な物、マイナス同士が結びついて共に仲良く消え失せる、これこそが理に適った淘汰というべきではないか、と。今更事新しく言うまでもないが、それは世一自身のためであり、ひいては世一の家族のためでもあるはずだった。しかし、一義はある、と言ってくれたのは、冴え渡る月光のみだった。

そのとき突然、私の傍らで籠の烏が鳴いた。赤誠を尽くしてのさえずりは、みるみる世一の眼を潤ませた。そして、涙を超えた涙が一滴、壜のなかへぽとりと垂れ落ちた。すると、どうだ。私が生み出した有毒でこの世を否む雑菌どもが、悉く死滅したではないか。そのうえ、決して本意ではなかったのだが、私は瞬時にして世一の内臓をきれいに浄化し、衰退の一途を辿る筋肉に養分を与え、少なくともあと千日くらいは生きられる体に変えてやった。
(10・26・水)

丸山健二×ガジェット通信

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