イチローズモルトが愛されたのは、“らしさ”を大事にしたから【株式会社ベンチャーウイスキー取締役社長 肥土伊知郎氏の仕事論】
肥土伊知郎(あくと・いちろう)
1965年、埼玉県秩父市生まれ。 東京農業大学醸造学科卒業後、サントリー入社。営業企画、営業職に従事する。28歳の時、父が経営する家業の造り酒屋に入社。その後、同社は他社に譲渡され、ウイスキーの原酒は期限付きで廃棄されることとなる。その原酒を笹の川酒造に預け、ベンチャーウイスキー社を設立。2007年には秩父蒸溜所が完成し、最初につくったモルトウイスキー「秩父 ザ・ファースト」が米国の専門誌でジャパニーズウイスキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
香港のオークションで
54本セットが4800万円で落札。
大きな話題となった国産ウイスキー
「イチローズモルト」。
1本の値段は平均1万円もするが、
いつも完売状態だという。
伝説のウイスキーを造った背景には、
一人の男の決断と苦労があった
もの造りがしたくて、経営不振の会社に転職
転機はサントリーを辞めたことでしょうか。28歳の時です。サントリーには新卒で入社し、最初は営業企画の仕事をしていました。でも、私の考える企画は机上の空論といいますか、現場を知らない人がいうことだと営業から指摘を受けまして。それで、営業に異動願を出したんです。仕事は面白かったですよ。飲食店だけでなく問屋や酒屋などいろんなお客様と接することができましたし、非常に勉強になりました。頑張りが認められて2回ほど社内の業績表彰も受けたこともあります。
それなのになぜ辞めたかというと、仕事にやりがいを感じつつも、心のどこかで「もの造りがしたい」という気持ちがあったから。大学で醸造学を専攻したのもその理由からでしたし、サントリーでも山崎の蒸溜所で働きたいという希望がありました。でも、当時は大学院を出ていないと技術者として働くことは難しかったので、文系職で働いていたんです。仕事は順調でしたが、いつしか「このまま、この仕事をしていていいのか」と考えるようになっていて。
そんなとき、父から「うちの会社 (家業)を手伝ってもらえないか」と誘われたんです。もともとうちは江戸時代(1625年)から続く造り酒屋で、祖父の代からは秩父に蒸溜所(羽生蒸溜所)を作って、日本酒だけでなくウイスキーの製造も始めていました。ですから父から誘いを受けたとき、これは渡りに船だなと(笑)。業績が悪いことは聞いていたのですが、深く考えずに転職することにしたんです。
400樽のウイスキーの原酒を見捨てることはできず、会社を興した
しかし入社してみると、父の会社は思っていたよりずっと業績が悪かった。杜氏の高齢化が進み、人手不足になることを懸念し大規模な設備投資をしたんですが、そのことが足を引っ張って思うように業績が上がらなかったんです。
ウイスキーだけでなく日本酒も市場が小さくなっていった時期で、好まれるのは紙パック入りの日本酒やペットボトルに入った焼酎など、安価な酒でした。時流に合わせる努力をしたものの、なかなかうまくいかず、結局、家業は関西の会社に買収されることになりました。
従業員はすべて買収先の会社で雇ってもらうことになり、自分も誘われたのですが、話せば話すほど経営方針が合わない。一番気にかかったのはウイスキーのことです。ウイスキー部門は廃止にすると言われて。貯蔵期間が長くかかるウイスキーは見込みがないと思ったんでしょうね。羽生蒸溜所にある400樽分の原酒は期限付きで処分されることになりました。自分で引き取ろうと思っても製造免許が必要となる。だからといって、せっかく20年も熟成させた原酒を捨てられない。どこか引受先がないかと、あちこちの会社に聞いて回って、原酒を置いてくれる造り酒屋を見つけたんです。福島にある笹の川酒造という蔵元です。私の話を聞いた社長さんが、「手間暇かけてつくった原酒を捨てるわけにはいかない」と、空いている倉庫を使わせてくれたんです。その後、笹の川酒造さんに手を貸していただきながら造ったウイスキーが、「イチローズモルト」です。