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「日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員」P・ブルーム

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 戦後史家・有馬哲夫氏が新たに公開された機密文書から戦後秘史を読み解く『SAPIO』の連載。今回は、日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員について有馬氏が綴る。

 * * *
 終戦期にスイスで築いた対日インテリジェンス網を活かし、戦後、緒方竹虎(本シリーズの第二回に登場)や野村吉三郎(前号に登場)などの要人をアセット(注1)とし、日本を陰で動かしていたのは、本シリーズ第三回でも詳述したように、アレン・ダレスだった。

【注1:工作に使える人材】

 ところが、ダレスは、母校プリンストン大学のアーカイブに残るパスポートを見る限り、2回しか訪日していない。では、戦後の日本で、緒方や野村の日本版CIAや海上自衛隊創設の動きを本国のダレスに伝え、彼らをCIAのアセットとしたのは誰だったのだろうか。

 前述アーカイブとアメリカ国立第2公文書館の資料からは、少なくともその一人は、ポール・ブルームだったことがわかっている。彼はよく「初代CIA日本支局長」といわれるが、公文書は彼がOSS(CIAの前身)局員と国務省職員(GHQ外交部勤務)だったことしか示していない。

 彼の関係者、とくにOSSスイス支局で上司だったダレスの関連文書や国務省文書などから彼がダレスと緒方や野村とをつないだケース・オフィサー(注2)だったということがわかるが(拙著『「スイス諜報網」の日米終戦工作』新潮選書参照)、CIA所属だったか、それとも国務省職員兼ダレスの個人的エージェントだったかはわからない。

【注2:対象国で情報提供者や協力者のリクルートや「運営」を行い、情報を集め、協力者を通じて工作を行う役割を担う諜報員】

◆各界の要人が出席した「火曜会」

 ブルームがCIA局員だったかどうか不明というのは、1947年(以下西暦は下2桁のみ)にCIAが設立されたときから現在に至るまで、CIA局員の名前や身元を明らかにすることは法律で禁じられているからだ。だから公的なものであれ私的なものであれ、公開されている資料からブルームが「初代CIA支局長」だったと証明できない。この通称は、私自身も第一次資料にあたる以前に使ったことがあるが、その後の調査でそうではない公算が極めて高いとわかった。

 そもそも、あとで述べる事情から、CIA創設前後は、日本支局があったとしても、正式のオフィスは持てなかったし、たとえブルームがCIA所属だとして、局員は彼しかいなかったはずである。また、支局長なら管理職なので、通常はケース・オフィサーなどフィールド(現場)の仕事はしない。

 ブルームはダレスのもとで対日終戦工作に関わったのち、終戦後スイスのアメリカ公使館員としてとどまったが、47年にGHQ外交部(注3)の職員として赴任してきた。この前後にダレスとの間でなされた手紙や資金のやりとりから、ダレスの意向を受けた日本赴任だったことがわかっている。

【注3:日本は当時被占領国で独立国ではないので、この外交部が国務省の出先機関である大使館の役割をしていた】

 なぜダレスがブルームをGHQに送り込んだのかを理解するためには、アメリカの情報機関の歴史を紐解く必要がある。もともと、アメリカの情報機関といえば軍のもので、海軍のONI(海軍情報局)と陸軍のG2(参謀第2部)があった。

 これら軍からあがってくるインテリジェンスに頼っていてはイニシアティヴを発揮できないと考えたフランクリン・ルーズヴェルト大統領は、戦争直前に直属の情報機関としてCOI(情報調整局)を大統領令で創設した。これから分かれたのがOSSとOWI(戦争情報局)だ。

 だが、自分の領分を侵された軍関係者は大統領の措置を受け入れず、軍の作戦地域ではこれらの情報機関を活動させないという妥協案を引き出した。ダグラス・マッカーサー元帥のOSS嫌いは有名で、その後身であるCIAの日本での活動も50年に朝鮮戦争が始まるまで極端に制限されていた。

 このため、47年に部局横断的に情報を集約するためにCIAが設置されても、日本からは、マッカーサーが許可した彼に都合のよい情報しか流れてこず、CIAは直接情報をとることができなかった。バイアスがかかっていない日本情勢、東アジア情勢についての情報を得るためには、自前のケース・オフィサーを潜入させて情報提供者や協力者をリクルートさせ、独自に情報を集めさせるしかなかったのだ。ブルームが正式のCIA局員ではなくGHQ外交部の国務省職員としてしか日本に来られなかったのは、このような理由による。

 ブルーム公認の伝記『ブルームさん!』(ボブ・グリーン著)には、戦後の日本にやってきたブルームが、まず朝日新聞で出世していた笠信太郎を探しだし、次いで彼に赤貧洗うが如きだった藤村義朗(旧名義一)を見つけださせ、彼を貿易会社ジュピターの共同経営者に仕立てて、「実業家」にしたことが記されている。また、彼は笠と「火曜会」(注4)を共宰し、日本の各界を代表する人物から情報を集めていた。

【注4:松本重治(国際文化会館理事長)、松方三郎(共同通信社専務理事)、浦松佐美太郎(評論家)、東畑精一(農業経済学者)、蝋山政道(政治学者)、前田多門(元文相)、佐島敬愛(信越化学取締役)が主なメンバーで当時首相の吉田茂も参加することがあった。ブルームがこれらの人物を通じてさらに情報提供者や協力者をリクルートしていたことは想像に難くない】

 その笠は高校、大学、朝日新聞を通じて緒方の後輩だった。藤村は羽振りがよくなったあと海上自衛隊創設に動いている野村に近づき、54年の参議院選出馬の際には選挙資金担当者になっている。この選挙にCIAは資金だけでなく選挙コンサルタントまで送っている。

 したがって、緒方と野村は、ブルームが笠と藤村を通じてアプローチし獲得したアセットだったと考えるのが妥当だろう。それをCIA副長官、そして長官になったあとダレスがCIAの対日工作に利用したのだ。

 しかし、ダレスが正式にCIA関係者となるのは副長官となった51年(長官就任はさらにその翌々年)なので、それまでのブルームはCIA局員というより国務省職員兼ダレスの個人的エージェントだったと考えるべきだろう。

 51年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、翌年に7年間にわたる占領が終わり、GHQが引き揚げたあと、CIAが正式に対日インテリジェンス活動を担うことになった。緒方の日本版CIA創設の動きも、野村の海上自衛隊設置の動きもこのころ活発化している。これは占領が終わっただけでなく、CIAが大手を振って活動できるようになったからだろう。

 ただし、緒方の日本版CIA創設と野村の海上自衛隊設置にブルームが直接関わっていたかというと、それはまた別の話だ。ブルームは野村が参議院選に当選したとき、祝福する手紙を送っているが、直接的当事者だったらこんなことをするだろうか。

◆1952年7月に名前が消えた

 その一方で、国務省政策企画部のフランク・ウィズナーは野村が「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」といっているが、野村から情報を受け取ったのは藤村だった。この場合は、ブルーム経由でその情報がダレスに流れていたと考えるのが自然だ。だが、これも、彼が情報をリレーしていたことを示しているだけで、対日工作に関わっていたことまで意味するとはいえない。

 ブルームの名前は、52年の7月を最後に外交部およびアメリカ大使館職員の名簿から消えている。正式にCIA所属になったか、あるいは私人に戻ったと考えられる。私は後者だと推測している。CIA入りしたのなら、表向きの肩書があったほうがいいので、名簿にそのまま名前を残したはずだ。事実大抵のCIA局員は大使館職員の肩書を持っている。

 いずれにせよ、ブルームがそれまでに緒方と野村に対する工作のベースとなる人的ネットワーク作りに大いに貢献してきたということは疑いようがない。これなしには、ダレスのその後の対日工作は可能にならなかったのだ。

 晩年、ブルームは生涯買い集め続けた日本について書かれた西洋の書物の一大コレクションを横浜開港資料館に寄贈している。彼がいかに日本を愛していたかを示す事実だ。ここから私は、ブルームは日本を愛し過ぎて、日本人情報提供者・協力者を獲得するところまではできたが、それを利用してアメリカ側の国益を追求するCIAの対日工作に手を染めることまではできなかったと推察する。彼にとって、国籍上の祖国はアメリカだが、心のふるさとは、彼が生まれ、幼少時代を過ごした日本だったのではないだろうか。

●ポール・チャールズ・ブルーム(1898-1981)
ユダヤ系フランス人の貿易商を父としユダヤ系アメリカ人を母として横浜で生まれた。その後フランスとアメリカで少年・青年期を過ごし、アメリカ国籍を取得し、イェール大学を卒業している。第一次世界大戦に従軍後、しばらくパリにいたが、ナチスが台頭してきたためにニューヨークに戻ってきたところ当時コロンビア大学生だったドナルド・キーンと出会い、彼に日本文学を専攻することを勧める。日米戦争勃発後はOSSに入り、1944年からスイス支局に配属されアレン・ダレスの部下となり、日米の終戦工作にも加わった。

【PROFILE】ありまてつお:早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授。著書に『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(新潮選書)、『原発・正力・CIA』(新潮新書)、『アレン・ダレス』(講談社)など。  

※SAPIO2016年7月号

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