体験を伝える―『ガジェット通信』の考え方

面白いものを探しにいこう 本物を体験し体感しよう 会いたい人に会いに行こう 見たことのないものを見に行こう そしてそれをやわらかくみんなに伝えよう [→ガジェ通についてもっと詳しく] [→ガジェット通信フロアについて]

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#30 ベルリン

DSC03546

 

日頃から体調には気をつけていても崩すことはある。そういう時のリカバリー方法を自分なりに心得ている人は多いと思う。勝手知る付き合いの長い自分の体のこと、自分で治すコツをいくつか持っている人はセルフヒーラーでもある。私の場合、腹痛に対してはうつ伏せに寝て腹部に拳を当てる。拳に遠慮なく脱力した体重をかけ、痛い箇所を圧迫する。たいていの腹痛は五分も待たずにやわらいでいく。頭痛の場合は後頭部の首とのジョイント部分を指圧するようにマッサージする。これも良く効く。頭蓋骨を持ち上げるほどに強くじんわりと当てるのが心地よい。眼性の疲労ならば、鼻の上、眉の端下にあるツボを揉む。こんな具合に病院や薬局に行く前に、いくつかの小さなスキルを持っておくと心強い。特に旅行中の不調は心細く不安に陥りやすい。そんな時こそスキルというホームドクターの存在がありがたい。自分にもつい最近そういうケースがあった。場所はベルリンでのこと。その朝、目覚めると、疲労感と発熱感があり、腹部にも不快感があった。風邪にも似ていたが、それに輪をかけて強い疲労感があり、すぐに昨夜のメニューが思い浮かんだ。

ベルリン在住の友人の薦めでトルコ料理店に行き、薦められるままに羊の内臓のスープをいただいた。普段肉をほとんど食べないので、ちょっと強すぎるかなあと尻込みしたが、口にすると癖は強いが以外と美味しかったので、結局内臓も食べ、全て飲み干してしまった。

翌朝、私は鏡に映る疲弊した自分の顔を見つつ、腹に手をあてて、今更悔いたがもう遅かった。

それでも午前中の約束を果たすべく、地下鉄を乗り継いで動物園駅前にある待ち合わせ場所、ヘルムート・ニュートン写真美術館へとたどり着いた。

三十分も前に着いたので、十ユーロほどを払ってニュートンの展示を見ることにしたのだが、全身に力が入らず、搾りかすのようなていたらくぶりであった。ニュートンの力強い構図が、弱った体に追い討ちをかけるかのように私を見下ろして、浜に打ち上げられた漂流者の虚無を感じた。

私は展示を見ることを早々に諦めて、広大な建物の隅に慈悲のように配置されてあるソファに身を預けた。

2ページ目につづく

DSC03550

うちのめされる、というのはこういうことを言うのだろう、などと感じつつ、ソファの柔らかさに安堵した。とはいえ、体調はまだまだ下降していくのは明らかだったし、約束の待ち合わせ時間は、にじり寄ってくるしで、小さな悪夢の始まりをせせら笑う余裕は残念ながらなかった。一階のブックストアで、ベルリン在住の若手写真家のFくんと合流すると、本当はランチを一緒にする予定だったが、事情を話して近くのカフェに甘んじた。Fくんは最も期待されている日本人新進写真家の一人に数えられていて、新作の構想やロンドンでの展示について語ってくれた。本来ならば、写真談義に花が咲き、昼間からドイツビールをがぶがぶ飲んで調子に乗る予定だったのだが、いかんともしがたく、小一時間後に席を立つはめになった。旧東ドイツエリアに住む彼とは、もっと話したかったし、彼の在住エリアを散策もしたかったのだけれど、もと来た地下鉄を逆に乗り継いでホテルに早々と戻る選択となった。具合が悪い時の最善の対処は、寝ることである。それにしてもあれほどの不調は近年稀であった。羊のスープをうらめしく思うのは仕方ないので展開しなかったが、不調の時は何かのせいにしたがるし、それが分かったからといって僅かな不毛な腹いせにしかならないのだが、ついつい気まで病んでしまう。病は気からとは言うが、そればかりでもない。その時は、病は羊からであった。眠れない時に羊を数えたことは幼少の頃の思い出だが、あんなことは二度としないだろう、と思うほどに、羊がうっとうしかった。世界中から半日ほど羊が消えてくれたらと、願いもするほどに。

とまあ、これらは紙の上の戯れに過ぎないが、あの時の自分は本当に参っていた。

ベルリンのホテル事情は結構良い。同じ値段でもパリの三倍の広さが与えられるし、設備も新しい。ちょうど三回の角部屋を得ていたのだが、その眺めと採光の良ささえも恨めしかった。

1 2次のページ
NeoL/ネオエルの記事一覧をみる
  • 誤字を発見した方はこちらからご連絡ください。
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちらから
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。