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雇用と競争について

政治・経済・社会
内田樹の研究室

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

雇用と競争について

フェリスへの行き帰りの新幹線車中で、下村治『日本は悪くない、悪いのはアメリカだ』(文春文庫)を読む。
先日、平川克美君に勧められて、これと『日本経済成長論』を買った。
下村治は明治生まれの大蔵官僚で、池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした人である。
1987年の本だから、24年前、バブル経済の初期、アメリカがレーガノミックスで“双子の赤字”が膨れあがり、日本では中曾根首相が「国民一人100ドル外貨を消費しよう」と輸出過剰を抑制しようとしていた時代の本である。
24年前に書かれた経済分析の本が、四半世紀を経てなおリーダブルであるということにまず驚かされる。
リーダブルであるのは、(リーマンショックによるアメリカ経済の崩壊を含めて)下村が指摘したとおりに国際経済が推移したからである。
これだけ長い射程で日米経済のありようを見通せたのは、下村のものを見る眼がきちんとしていたからである。
下村の思想を一言で言えば「経済は人間が営んでいる」ということである。
人間が営んでいるものである以上、“人間とはどのようにふるまうものか”についての洞察があれば、経済についても汎通性の高い知見をもつことができる。
解説で水木楊はこう書いている。

経済学は自然科学ではない。例えば、台風は来て欲しくないといくら願っても、自然の法則に従い、やってくる。だが、恐慌は人間の行動と、その奥にある心理によってもたらされる。株価が下がるとみなが思えば株を売りに走り、その結果として株価はさらに下がるのだ。(217ページ)

人間が集合的にふるまうときの“心理”についての理解が深ければ、経済活動のランダムに見える動きに人間的なレベルで、ある種の合理性やパターンを見抜くことができる。
下村がエコノミストたちの議論を一蹴するときのロジックはそれである。

この議論の決定的な間違いは、現実の人間が視野に入っていないことだ。(・・・)いったい人間がいない経済を想定してどういう意味があるのだろうか。
このような間違いを犯すのは、経済の姿を原子論的な個体の集合のように思い違いしているからだ。(108-9ページ)

これは自由貿易について述べた部分での言葉である。
TPPについて原理的に考えようと思って読み出した本であるが、自由貿易についての下村の舌鋒(ぜっぽう)の鋭さに驚いた。
現在の日本のエコノミストの中で、ここまでクリアカットに自由貿易主義を批判する人が何人いるだろうか。
下村の基本は経済は“国民経済”を基礎とする、ということである。“経世済民”の術なのだから、それが本義であるのは当たり前のことだ。

本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。(95ページ)

この指摘のラディカルさに、私は驚かされた。
当節はやりの“グローバル人材”とか“メガコンペティション”とかいうことをなんなんと論じている人たちはおそらく「この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない」と言い切ることができまい。
「競争で勝ち残らなければひどい目に遭う」という命題を彼らは国際競争についてだけでなく、実は国民間の“生き残り競争”にも適用しているからである。
「競争で勝ち残れない日本人はひどい目に遭ってもしかたがない」と彼らは思っている。
あれほど「競争力をつけろ」とがみがみ言い聞かせてきたのに、自己努力が足りなかった連中にはそれにふさわしい罰(列島からでられず、貧苦に苦しむという罰)が下るのは「しかたがない」と思っている。
そういう人たちは別に何のやましさもなく、日本列島を出て、愉快に暮らせる土地に移って行くだろう。
下村は逆に“その手”を封じて、経済について考える。
「まずオレが食っていくためにどうするか」ではなく、「まず一億二千万が食ってゆくためにどうするか」を考える。
話の順番が違うのである。
グローバリストたちの言い分は一見すると合理的に見える。
自由貿易によって、低コストで高付加価値の製品をつくりだす産業分野だけが国際競争に生き残り、他の産業は壊滅する。
だが、この“勝ち抜けた産業分野”からの“余沢”に浴することによって、いずれ国民全体が経済的な恩恵をこうむるであろう。
一点突破全面展開論といってもいいし、“先富論”といってもいい。
もとは中華思想である。
世界の中心に中華皇帝がおり、そこに権力も財貨も情報も文化資本も全部が集中する。
臣民は中華皇帝からの同心円的な隔たりによって格付けされ、資源も皇帝からの距離に従って按分(あんぶん)される。
皇帝に近いものは王化の光に浴し、辺境には禽獣(きんじゅう)と変わらない“化外の民”が蟠踞(ばんきょ)する。
4000年前から中国人はグローバリストだったのである(今日の富貴もむべなるかな)。
中華皇帝を“ウォール街”と置き換えても話は同じである。
国民経済というのは、このグローバルでモノトーンな世界に対して、ローカルで、自律的で、カラフルな経済環境を対置させようとするものである。
世界は同心円構造ではなく、サイズも機能も異なるさまざまな国民経済圏に“ばらけている”方がよい、という考え方である。
その方が個別的な“経済圏”の中に暮らす人々を“食わせる”ことのできる可能性が高いからである。
下村によれば、国民経済は、生産性の低いセクターで働く人たちでも“食える”ように制度設計されている。
それだけでもたいしたものだ、と下村は考えている。
TPPのいちばん熱いトピックである農産物についても下村の立場は明快である。
アメリカは日本が農産物について高い関税障壁を設けて保護していることを市場閉鎖的であると難じているが、それは文句を言うのが筋違いである。
これには国民経済史的必然があるからだ。

どうしてこうなったかと言えば、日本は明治維新から、日本列島に住む日本人に十分な就業機会を与えながら、かつ、付加価値生産性の高い産業を育成し、それで十分に高い所得を実現する、という目標を必死になって追求してきた。ところが、雇用機会を増やすことと付加価値生産性の高い産業を育成することは必ずしも簡単ではないばかりか、同時に実現することはできないものである。
というのは、多くの人に就業機会を与えるためには、それ相応の人手を産業に吸収させなければならない。しかし、付加価値を高めるには、なるべく人手を減らして生産性を高める必要がある。
このため、必然的に、生産高の割りには人手を多く必要とする生産性の低い部門と、徹底的に合理化して相対的に人手をあまり必要としない生産性の高い部門の両極端の産業が成立するようになったのである。その結果として、今日の日本人の生活があるということができる。
したがって、今でも日本は、自動車のように生産性がきわめて高い産業がある一方で、コメに代表されるような、生産性のきわめて低い品目をむりやり維持している、という状況になっているのだ。(75ページ)

コメ生産について、これほど腑(ふ)に落ちる説明を私はかつて読んだことがない。
今の日本における若年層の雇用環境の悪化は“多くの人に就業機会を与えるために、生産性は低いが人手を多く要する産業分野が国民経済的には存在しなければならない”という常識が統治者からも、経営者からも、失われたからではないのか。
生産性を上げなければ国際競争力はつかない。
生産性を上げるためには人件費を最低限まで抑制しなければならない。
だから、“生産性が高くなればなるほど、雇用機会が減少する”というスパイラルが起こる。
今のエコノミストたちのうちに、これをはっきり非とする人はいるのだろうか。
完全雇用(食わせること)が国際競争力の向上の“目的”であり、それゆえ、それに「優先する」と断言する人を、私は見たことがない。
エコノミストたちは“雇用環境の改善は、さらに生産性を上げることによって達成される”というロジックを手放さない。
“生産性を上げる”というのは端的に“人件費コストを減らす”ということである。
だから、付加価値生産性の高いセクターでは、雇用はどんどん減る。
たしかに一時的に雇用は減るが、生産性の高い産業が日本経済をけん引して、いずれその突出した成功をおさめた国際的企業の収益が下々のものにも“余沢”を及ぼし、雇用は回復することであろう……というのがグローバリストの主張である。
貧乏人たちの金を吸い上げて、一部の金持ちに集約させる。衆の輿望(よぼう)を担ったこの“金持ち”が他の金持ちたちとの国際競争に勝ち、回り回ってその金持ちが貧乏人たちに“収益の余り”を施すようになる、というシナリオである。
鄧小平の“先富論”そのままである。
だが、競争に勝った金持ちはイタリアでフェラーリを買い、フランスでシャトーマルゴーを飲み、ハワイにコンドミニアムを買い、ケイマン諸島に銀行口座を開くかもしれない。
彼を送り出すためにあえて貧乏を受け容れた“地元民”たちは「いずれ、“余沢”が及ぶ」という約束を信じて、手をつかねて待っているうちに貧窮のうちに生涯を終えた……という話になるかも知れない。
たぶん高い確率でそうなるだろう。
だが、国民経済というのは、端的に全国民が“食えるか”どうかという問題である。
胃袋の問題、米びつの問題である。原理原則はどうでもよろしい。
生産性が高い産業は“よいもの”で、生産性が低い産業は“悪いもの”だというのは、下村の言葉を借りれば“原子論的”な世迷い言である。
生産性が低いが大量の雇用を引き受ける産業(というより、大量の雇用を引き受けるがゆえに生産性の低い産業)は、国民経済的には必要不可欠のものである。
良いも悪いもない。
全国民に就業機会を担保しつつ、付加価値生産性の高い産業を育成すること。
これが国民経済の課題である。
それは「食べたいけど、痩せたい」というのと同じように苦しい条件である。
でも、この条件をのみ込まないと国民経済というものは立ちゆかない。
だが、自由貿易論者たちは、この分裂を嫌う。そして話を簡単にしようとする。
付加価値生産性の高い産業を育成すれば、“自動的に”全国民の就業機会は担保されるのだから、問題は「勝てる産業の育成だけだ」という話にまとめこもうとする。
この単純化を下村は語調荒く難じている。

それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なしといってよい。(・・・)自由貿易主義の決定的な間違いは、国民経済の視点を欠いていることだ。(96ページ)

下村は自由貿易で国内産業が壊滅したチリとインドと清朝中国の例を挙げている(存命していたら、2008年のメキシコの食料危機も例に挙げただろう)。
そして、ハロッドの次のような言葉を引いている。

完全雇用は自由貿易にもまして第一の優先目標である。完全雇用を達成するために輸入制限の強化が必要であれば、不幸なことではあるが、それを受容れなければなるまい。(100ページ)

続けて下村はこう書く。

自由貿易とはそういうものである。決して、神聖にして犯すべからざる至上の価値ではない。
強大国が弱小国を支配するための格好な手段でもあることをもっとハッキリと認識すべきだ。(100ページ)

改めて言うまでもないが、これは机上の空論をもてあそぶ学者の言葉ではない。日本の高度成長と所得倍増という、戦後もっとも成功した経済政策を現場で起案した人の言葉である。
TPP推進論者たちは、農業もまた自由貿易に耐えられるだけ生産性を高めなければならないと主張している。だから、アメリカでやっているようなビジネスライクな粗放農業を提案している。だが、それによって完全雇用の機会が遠のくことについては、何も言わない。
彼らは「自由貿易は完全雇用に優先する(なぜならば、自由貿易の結果、国際競争に勝利すれば、雇用環境は好転するはずだからである)」というロジックにしがみついている。
彼らが見落としているのは、自由貿易の勝利は、最終的にどの国の国民経済にも“義理がない”多国籍産業の手に帰すだろうということである。
“国民を食わせる”というような責務を負わず、“生産性の低い産業の分まで稼ぐ”というハンディを背負っていない多国籍企業が国際競争では勝つに決まっている。
国民経済は国際競争に勝つために制度設計されているものではない。
それは国民に雇用を担保することを第一義に制度設計されているのである。
そのことを下村治に改めて教えてもらった。
それを多として、ここにその主張の一部を録すのである。

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