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「人生は、波瀾万丈なくらいがおもしろい」ーー35年間の仕事人生をリクルートと共に 歩んできた柴田教夫の軌跡

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2012年、株式会社リクルートのHRカンパニーと、株式会社リクルートエージェントの統合によって誕生した、株式会社リクルートキャリア。「人で、世界一になる」ことを目指すこの場所では、社員一人ひとりが主人公です。今回は、82年の入社以来、リクルート、そしてリクルートキャリアとともに波瀾万丈な人生を送ってきた、柴田教夫のストーリーをお届けします。

時代は80年代、バブル真っ盛り。日本経済の絶頂期にリクルートへ

通称“のりお”こと柴田教夫。57歳、平社員。彼の日課は、毎日のように社内を“ブラブラ”歩き回り、多くの社員と談笑することです。

「もう15年くらい前からずっと、1日1時間はこの習慣を続けています。社員たちが今取り組んでいる仕事の話や、いろいろな悩みを聞いて勝手にアドバイスしたり、とりとめのない雑談をしたり、しょうもないギャグを言ったり……はじめて会う人たちはたぶん、『あのおっさん、何してんねん』と思っているんじゃないでしょうか(笑)」(柴田)

しかしこの柴田、実はリクルートがこれまでたどってきた激動の日々とともに、自身も波瀾万丈な人生を歩んできた社員のひとりなのです。

柴田が新卒でリクルートに入社したのは、1982年のこと。友人たちがこぞって公務員や大企業を志望するなか、「みんなと同じ道を歩むのはどうしても気が進まなかった」といいます。そこでたまたま目にとまったのが、当時はまだあまり知名度のなかったリクルートでした。

「認知度は高くなくても、新しい仕事を創出し、急成長をしていく会社の勢いを感じていました。新しい商売にはおもしろい連中が集まってきますし、事業がグッと伸びる可能性も大いにある。将来どちらに転ぶかはわからなかったけれど、僕は人生波瀾万丈なくらいがおもしろいと思っていました」(柴田)

実際、80年代のリクルートは猛烈なスピードで成長していました。その急成長ぶりを示すのが、当時の採用人数です。社員総数2,000人の時期にも関わらず、新入社員の人数は500〜1,000人。3人に1人が新卒社員という、今ではなかなか考えがたい状況のなかで、柴田の任される範囲は、入社早々から急速に広がっていきました。

入社5年目、27歳の頃には、彼はもうリクルート本社の総務課長になっていました。バブル景気の真っ只中で、日本経済も、そしてリクルートも絶好調だった時代のことです。

「リクルートの躍進を描いた本が売れて、マスコミからも脚光を浴びていました。僕は総務課長ですから、会長就任の大規模なパーティーを取り仕切ったりもしていましたね。とにかく、ものすごい勢いで会社が成長していく様を肌で感じていました」(柴田)

しかしこうした日々も、リクルートと柴田が辿ることになる波瀾万丈な道のりの、ほんの序章にすぎませんでした。

「リクルートの可能性を信じていたから」乗り越えられた数々の試練

「まるでジェットコースターのような毎日だった」と柴田が苦笑いで振り返るように、急成長から一転、80年代後半から90年代にかけて、会社にとっても彼自身にとっても受難の日々が続きます。

1988年の「リクルート事件」で企業として重大な危機に陥った直後、バブルが崩壊。そんな中、いきなり就職・転職情報誌の営業所長を務めることになったのです。

「全く経験がないのに営業所長になり、一番売上が大きな営業所を担当することになったんです。ちょうど、バブルが弾けた直後のことですね。まだ僕らを含めた一般人には実感がなかった頃です。しかし、これまで毎年億単位の注文をいただいていた会社が、その年は注文ゼロになることもざらにありました。10億円のマイナスを新規営業で埋めなければならない、などというあり得ない状況が続いていました」(柴田)

バブル崩壊の影響はあまりにも大きく、とても営業所長の手腕だけで対応できるものではありませんでした。営業として結果の出せなかった柴田は大阪で、設備情報誌『ハウジング』の責任者として再スタートを切ることになりました。

しかし……一度落下し始めたジェットコースターの加速は止まりません。柴田が大阪にいたそのわずか1年の間に、今度は阪神・淡路大震災が発生。それからわずか3か月後、家族とともに命からがら逃げのびた彼を待っていたのは、リクルート人材センター(現:リクルートキャリア)への転籍要請でした。

「当時、リクルート人材センターは3年連続の赤字を出していて、大変な課題を抱えていました。そこの総務・人事・経理すべてを統括してくれと。改革しにいくのに、自分だけ帰りの切符を持つわけにはいかないので、出向ではなく完全な転籍という形でした。でもサラリーマンは乞われるうちが花。お声がかかったものは断らない、と決めていましたから『一緒についてきてくれないか』と家族に頭を下げ、東京に戻ってきました」(柴田)

それまでずっと、最前線で矢面に立ち続けてきた柴田。しかし彼はどんな困難が降り掛かっても、どんなに大きな危機が訪れても、自分の仕事を悲観したり、投げ出したりしませんでした。それは、心のどこかで「リクルートの可能性を信じていたから」だといいます。

「入社する前から、リクルートは世の中にないことをやり続け、未来を変える会社だと感じていたんです。それを信じる気持ちは、どんなことがあっても変わりませんでした。だから僕もその一員として貢献したい。周りの人たちが喜んでくれるような、今までにないものを作りたい。そうした想いがずっと根底にありました」(柴田)

「50歳でも転職できる社会へ」ーー脳梗塞を経験して得た、新たな目標

覚悟を決めて転籍してきたリクルート人材センターで、柴田はさまざまな改革を実行。現場の営業、キャリアアドバイザーを含むすべてのスタッフが力を合わせ、ようやく赤字を脱却するまでになりました。しかし、その頃はまだ人材紹介業自体があまり一般的ではなく、採用も一人ひとりゼロから事業を説明し、魅力を伝え、口説いていくような地道な努力を続けていたといいます。

「採用の説明会では、僕らの仕事は“まだ見ぬ大陸”だと話していました。今はまだ水没している状態だけど、地面が上昇して10年後には大きな大陸になる!ってね。大風呂敷に聞こえたかもしれませんが、私はそれを本当に信じていました」(柴田)

ところが、リクルート人材センターが黒字転換してこれからどんどん業績を伸ばそうという矢先、柴田を次の試練が襲います。彼は39歳の若さで、脳梗塞で倒れてしまったのです。オフィスで意識不明の状態になり救急車で搬送され、半身不随に。その後、復帰にこぎつけるまで2年間のリハビリ生活を余儀なくされました。

「2年かけてようやく復帰したものの、思うように身体が動かせず、仕事も満足にできない状態でした。そこで部長から平社員へと降格してもらったんです。仕事内容も総務・人事から、40代から70代のミドルシニア層を対象にしたキャリアアドバイザーへと変わりました」(柴田)

さまざまな困難を乗り越えて、成果が生まれはじめた矢先の大病。しかしそれは、柴田にとって大きな転機になったと同時に、新たなチャレンジの“はじまり”にもなりました。自身の経験が糧となり、将来的に叶えたいひとつの目標が生まれたのです。

それは「50歳になっても、誰もが転職できる社会をつくる」こと。

「自分自身の経験から、40歳を超えて次の働き場所に移るのはかなり難しいと感じていました。一方で、高度成長期を支えてきた企業戦士の先輩たちは、実際にお会いしてみると、実に立派な方が多いんです。その方々のチカラをこのまま眠らせてしまうのは、日本の損失だと感じました。スキルも覚悟もあるミドルシニアをビジネスシーンに呼び戻す。それが自分のミッションです。これからも実現に向かって力を尽くしていきたいと思っています」(柴田)

こうした社会的な課題は、そう簡単に解決できるものではありません。「10年たって、ようやくちょっと変化してきたくらいかな」と、柴田はいいます。それでも彼は理想の実現のため、リクルートキャリアの中でできることを、少しずつ、着実に積み重ね続けています。

ミドルのための「キャリアチェンジ」セミナーを定期的に開催している。

「世の中にないものを生み出す」DNAを若手社員へと受け継いでいく

35年のキャリアを、リクルート、そしてリクルートキャリアとともに歩んできた柴田。その波瀾万丈な人生も、彼にいわせれば「期待した通り」なのだそうです。

「波瀾万丈がいいと思っていたのは、そのほうが人間として鍛えられると思ったからです。冷や汗を大量にかき、命の縮むような思いをしないと、たくましくなれないですから。仕事でも、人生でもいろいろありましたが、自分ではそんなに劇的だったなんて思わないですね」(柴田)

そして今日も、一介の平社員である柴田は社内をブラブラし、社員たちに声をかけ続けています。この行動にも、実は柴田のリクルートキャリアに対する熱い想いが込められていました。

「私たちのような大きな集団にいると、当然のように部や課があり、自分の役割があります。そうなると、どうしても自分の部署や、仕事で関わる人以外の人とは触れ合う機会がなくなってしまうんですよね。コミュニケーションを取るのが上司か同期だけという状態だと、仕事で行き詰まったときにしんどいんです。縦でも横でもない、“ナナメの関係”を作ってほしいと思っています」(柴田)

そんな“ナナメの関係”づくりを後押しするために、社内をブラブラして知り合った社員を呼び、「のりおを囲む会」と称した飲み会も催しています。

毎月開催している『のりおを囲む会』の様子。

「2006年から毎月開催していて、すでに100回以上開催しました。参加人数も述べ1,000人を超えています。退職したOB・OG会も呼んで開催しています。人事部長とか「エライ人」に呼ばれたら緊張するでしょうけど、僕は平社員ですから。ヒラだからこそできること、おもしろいこともあると思うんですよ。肩書きのない人間が、どこまで多くの人を動かせるか……僕にとっては、ひとつのゲームのようなものかもしれません」(柴田)

果たして今のリクルートキャリアの姿は、柴田の目にどのように映っているのでしょうか。

「私は、エネルギーのある若い人たちに対する期待値を、もっと上げていいと思っています。そのためには、数字の目標だけを掲げていてはダメ。日本をよくする、雇用を変える……そうした「青臭い」ことを大真面目に考えて、高いフラッグを掲げて高みを目指していくべきだと。そのためにもまずは、経営陣はじめ我々ベテランが本気で高みを目指し、その想いやビジョンを伝えていかなきゃいけませんね」(柴田)

入社から35年を経た今もなお、柴田はリクルートのDNAである「世の中にないものを生み出す」ことの価値を信じ、常に新しいことにチャレンジし続けています。自分自身の人生をユーモアたっぷりに語りながら、これからも彼は、若手社員たちへとその想いと経験を受け継いでいくのでしょう。

現在、積極採用中! 

現在リクルートキャリアではキャリア採用を積極的に行っています。

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