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蜷川幸雄さん 演出家時代前半は娘を育てる主夫だった

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 蜷川幸雄さん(享年80)が体調を崩したのは昨年12月、自身の半生を題材にした舞台の稽古中のことだった。1月半ばには肺炎で入院。予定されていた舞台を延期した。そして12日、「世界のニナガワ」は家族に見守られながら、この世を去った。享年80。死因は肺炎による多臓器不全だった。

 蜷川さんは1935年、埼玉・川口市の洋服屋に生まれた。子供の頃から成績抜群で、中学からは今や東大合格数ナンバー1の名門私立・開成に進学した。

「ところが、蜷川さん曰く、受験勉強をするのがイヤでたまらない。授業をサボって神保町の古本街をうろついたりしていたら出席日数が足りなくなり、高1のときに落第。“絵描きになる”と言って受験した東京芸大油絵科も落ちた。それで、何となく『俳優』を目指して劇団に入ったそうです」(舞台関係者)

 それから10年以上、俳優として舞台や映画、ドラマに出演した。しかし、俳優として大した才能がないと感じ始め、「俳優はダメ、じゃあ、演出という具合にポンッと飛んだ」(蜷川さん)という。演出家デビューは34才の時(1968年)。ただ、当時の仕事は年間1本の舞台の演出だけで、年収はたった40万円。

 そんな蜷川さんを支え続けたのが、1965年に結婚した妻の蜷川宏子さん(75才)だ。宏子さんは蜷川さんが所属していた劇団の女優で、「真山知子」の名で映画やテレビドラマなどで活躍していた。

《「演出家になろうと思うんだけど」って言ったら、(中略)「俳優と結婚したのに演出家になるなんて詐欺だ!」って(笑)。それでも「男は夢がないと生きていけないんだよね。いいわ、養うから」って言ってくれたんだよ》(76才の時の雑誌インタビュー)

 当時は川口市の公営アパートに住み、いわゆる「ヒモ暮らし」である。長女の実花さんが生まれたのは1973年。蜷川さんは「おれが“主夫”になって育児は引き受けるから」と言って、出産直後の宏子さんを女優に復帰させた。

 朝食を作って妻を送り出し、娘に離乳食を食べさせてから、掃除、洗濯、買物をすませる。そして娘をお風呂に入れた後は夕食の支度…。主夫としての子育ては娘が6才になるまで続いたという。

 小劇場から商業演劇に舞台を移し、1974年『ロミオとジュリエット』、1978年『ハムレット』と次々に大作を手がけると、観客は集まってきた。

 1983年、初の海外公演となる『王女メディア』がイタリアとギリシャで喝采を受け、1987年の『NINAGAWAマクベス』ロンドン公演で世界的な評価を確立した。それでも、当時の日本の演劇界、特に劇評家から酷評を受け続けた。

「蜷川さんはギリシャ悲劇もシェイクスピアも日本やアジアの民衆の視点から大胆な解釈をして演出した。『マクベス』は仏壇の中を舞台にし、『王女メディア』では津軽三味線を使った。そうした試みが、“古典を古典らしく演じること”を良しとした既存の演劇界から反発を受けたのです」(演劇関係者)

 1988年6月7日付の朝日新聞夕刊の劇評で、《東京・青山のスパイラルホールで見た「ハムレット」には、正直なところ、がっかりし疲れ果てた…》《俳優の責任というよりも、演出家の方に問題があるだろう》と酷評された。

 蜷川さんはこの劇評が「フェアでない」と激怒。ポスターの裏にマジックで手書きした『ニナガワ新聞』を劇場のロビーに張り出した。

《“朝日という名の電車”に乗って座席にふんぞりかえって(中略)一度として演劇のコンセプトを理解したことはない》

 この一件は当時、「800万部対1部」の戦いとして話題を呼んだ。

 80才になった蜷川さんの最後のインタビュー(『NumeroTOKYO』2015年12月号)ではこう語っていた。

《海外の人が書いた本だと、俺は世界の10人の大演出家の1人に入っているんですよ。だけど、俺はすでにトップ3だろうと思ったわけ》

 批判の的になっても、自分が信じた演出は揺るがない。それは世界に認められるまで続ける。それが、蜷川さんの枯れることないモチベーションだった。

※女性セブン2016年6月2日号

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