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末期癌の医師・僧侶 「私の身体は私のものなのか」を考察

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 2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月であることを自覚している医師・僧侶の田中雅博氏による『週刊ポスト』での連載 「いのちの苦しみが消える古典のことば」から、「身体」にまつわる言葉についてお届けする。今回の言葉は仏陀による「諸法は我でない」 だ。

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 前回は「苦という真実」に関して生・老・病・死・怨憎会・愛別離・求不得と、お釈迦様が七つの苦を挙げられたことを書きました。今回は「苦という真実」の続きで八番目の苦の話です。

 お釈迦様は、一切の苦しみを「五取蘊苦」に総括されました。五取蘊は自己執着の要素の集まりで、色・受・想・行・識の五つです。このうち、色は眼に見える対象であり、自分の身体という執着です。

 受・想・行・識は感覚・表象・意思・認識のような心の働きへの執着です。そして、苦しみを総括した五つの執着が空(空っぽ)になる、これが般若心経の五蘊皆空です。

 私の身体は私のものでしょうか? お釈迦様は否定します。私のものなら、私の思い通りになるはずです。私の思い通りにならないものは、私のものではありません。もしも、私の身体が私のものならば、若いままでいようと思えば若いままでいられるでしょう。しかし必ず年老いてしまいます。死なずにいようと思っても、いつの日か必ず死んでしまいます。

 私の身体は、私の思い通りに若いままでいたり、死なずにいたりすることはできません。私の思い通りにならない私の身体は、私のものではありません。私の感覚・表象・意思・認識も同じように、私のものではないのです。

 デカルトの「我思う、故に我あり」という命題の論理学的な間違いを証明したギルバート・ライルの範疇誤謬は、大学について説明する話です。初めて大学を訪問した人に講堂・図書館・運動場・礼拝堂などを案内しました。訪問者は、講堂・図書館・運動場・礼拝堂などは解りましたが、大学はどこにあったのでしょう、と言ったという話です。大学を構成する各要素は大学自体と範疇が違うのです。

「私」を構成する要素の身体・感覚・表象・意思・認識と「私」自体は範疇が異なるのです。お釈迦様も「諸法は我でない」と言いました。私の身体・感覚・表象・意思・認識は「私」ではないという意味です。

 実は、お釈迦様よりも数百年前からインド哲学では、死ぬ存在としての「私」は「これではない、これでもない」と否定でしか表現できないとされてきました。古代ギリシャの哲学でも同様でした。「私」はイグジステンス(外にあるという意味。実存と訳される)という在り方です。プラトンは絶対他であると説明しました。他は他自身の他でもあるというのです。

 このように、死ぬ存在としての「私」は、古代のインドやギリシャの時代から現代の実存哲学まで、仏教も含めて「否定でしか表現できない」という点で共通しています。私が行なっている瞑想法「阿字観」も、否定を意味する「ア」という文字に精神を集中し、苦を総括した五取蘊を空っぽにするヨーガ(心の働きの制御)です。

●たなか・まさひろ/1946年、栃木県益子町の西明寺に生まれる。東京慈恵医科大学卒業後、国立がんセンターで研究所室長・病院内科医として勤務。1990年に西明寺境内に入院・緩和ケアも行なう普門院診療所を建設、内科医、僧侶として患者と向き合う。2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月と自覚している。

※週刊ポスト2016年5月27日号

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