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森繁久彌 「感動は、その日の観客との間にあるものだ」

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 喜劇役者として人気を博し出演映画は250本超、1966年の初演から1986年まで主演したミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』日本版は上演回数が900回を超えた国民的俳優の故・森繁久彌。多くの役者に影響を与えた故人が遺した言葉から、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』からお届けする。

 * * *
 本連載でベテラン俳優にインタビューさせていただく際、「薫陶を受けた・影響を与えられた先輩俳優」についてうかがうことにしている。それに対し、多くの人たちが名前を挙げるのが森繁久彌である。彼の軽妙でありながら人の心を揺さぶる演技は、観る側だけでなく、プロの役者たちもうならせてきた。

 では、森繁は「演技をする」ということについて実際にはどのような考えを持っていたのだろうか。エッセイ集『品格と色気と哀愁と』(朝日文庫)には、「私はうら若い青年たちを集めて芝居のコツを教えるつもりだった」という一行から始まる、若手俳優たちとの興味深いやりとりが記されている。

 たとえば、「君はセリフをどこで覚えるんだい」という森繁の質問に対し「頭」と答えた若手に、絶妙な返しをしている。

「頭……か、当たり前の話だねえ、うん、それで分かった。君はアップしか撮れないね」「頭で覚えるんだから」

 そして、こう続けている。

「本当は、一回飲み込んでみたらどうだ」
「へそまで撮れるんだ」
「いいかい。出来れば消化してウンチと一緒に出してしまうんだよ」
「そうすると、全身のどの部分でも立派な芝居をしている」

 さらに、森繁の芝居談義は熱を帯びてくる。

「まあ、簡単に言えば、要らないものを引っさげて舞台に出るんじゃない。血肉になったエッセンスをしっかりもってセリフを言う」

 森繁はこの「要らないもの」は何なのか──ということについてもハッキリ言及している。

「要らない芝居をアドリブというが、アドリブは私はあまり好きではない」

 森繁と共演の多かった宝田明も本連載で指摘しているところだが、森繁の軽妙かつ自然な芝居の数々は、一見するとアドリブのように思えてしまう。だがそれは全て、本番前から計算され尽くしてきた芝居であった。その場で思いついたアイディア=アドリブは、役者の「血肉」にはなっていない段階の芝居であるため、どうしても一人よがりで、表面的な表現になってしまいがちになる──そうした考えが、森繁の根底にはあった。

 ただ、一方で森繁はこうも言っている。「アドリブはよほどの時に許されるが、それ以外には許されない」と語る森繁に「先生は舞台で時々やりますねえ」と若手が指摘した際のことだ。

「セリフというものはねえ、キャッチボールだからねえ、いいボールを投げるばかりがピッチャーじゃなくて、たまには暴投することも必要だ」

 本人が決して正しいとは思っていない芝居を、あえてする。考えさせられる謎かけだ。なぜそうする必要があるのか。森繁は「急に分からない方がいいな、いま難しい話だから」と突き放し、その答えを示してはいない。

 ただヒントとして、演出家のサミー・ベイスの言葉から引いて、次のように記している。

「感動は本人にあるのではない、感動はその日の本人と観客の間にあるものだ」

●かすが たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』(文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』『市川崑と「犬神家の一族」』(ともに新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。

※週刊ポスト2016年5月20日号

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