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吉田茂が邪魔をしなければ竹島問題は今日存在しなかった説

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 竹島をめぐる、現在の日本と韓国の間に横たわる問題は、1952年の日本の総理大臣が野村吉三郎だったら、存在していなかったかもしれない。戦後史家・有馬哲夫氏が新たに公開された機密文書から戦後秘史を読み解く『SAPIO』の連載から、吉田茂に代わりCIAが日本の総理大臣になることを望んでいた男について綴る。

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 野村吉三郎といえば、日米開戦回避のために日米交渉にあたりながら果たせず、不手際から宣戦布告文も真珠湾攻撃の後にコーデル・ハル国務長官に渡してしまった駐米大使(もともとは海軍大将)として知られる。その野村が戦後なにをしていたのか、アメリカとくにCIAとどんな関係を築いていたのかを知る人はまずいないだろう。

 野村は、彼が戦後に悲願としたことのゆえに、CIAが総理大臣にと望んだ男だった。その悲願とは、日本海軍と日本の国防力の再建だった。降伏し、武装解除されたその日から、海軍であれ、陸軍であれ旧軍人は日本軍と自立的国防力の再建を悲願とした。

 アメリカ側からみれば、これは日本にアジアの安全保障の一部を分担させることで、野村はそのために利用できる優良なアセット(工作に使える人材)だった。本稿では野村が悲願を達成できたのか、そこにアメリカ側、とくにCIAはどのようにかかわったのかを明らかにしていこう。

 占領軍は日本の旧陸軍軍人を対共産主義国戦略のために積極的に利用したのに対し、野村ら旧海軍軍人には当初冷淡だった。というのも陸上兵力は独力で海外進出できないが、海軍力が加われば可能になるからだ。アメリカは、初めは日本に本州4島の専守防衛しか認めるつもりはなかった。

 野村とは旧知の間柄のリチャード・バーキー米海軍中将が極東海軍の初代司令官として日本に赴任してきたときも、野村の「海軍再建」の打診に対して、自分個人としては野村の考えに賛成だが、アメリカ海軍としては野村の「海軍再建」を許容する気持ちはまったくないと返答している。

 しかし、この態度は1950年(以下西暦は下二桁のみ)の朝鮮戦争勃発のあと劇的に変わる。アメリカはまず日本政府に警察予備隊の設立を命じ、中核を担う幹部に旧陸軍の軍人を多数起用させた。

 朝鮮戦争が泥沼化し、犠牲者の数が相当な数にのぼると、アメリカ政府は、日本にも相応の再軍備をさせ、アメリカとともに戦わせるべきだという考えに傾いていった。

 だが、日本本土の兵力を海外に送るためには海軍力が必要になる。最小限の海上兵力を日本が持つのを許さざるを得ないという結論に行き着く。

 1950年の夏に2代目の極東アメリカ海軍司令官ターナー・ジョイ中将と吉田茂首相が会談する機会が設けられ、この席にはアメリカ海軍関係者をよく知る野村も呼ばれた。この席でジョイは、野村にこのように提案した。

“朝鮮戦争も始まったので、この際日本も海上兵力を持つべきだ、ソ連に武器貸与法で貸与し、その後返還をうけたフリゲート艦18隻が横須賀にあるが、これを使ってはどうか”

 これは野村にすればわたりに舟だが、この18隻を受け取るためには受け皿となる機関を作る必要がある。つまりのちの海上警備隊(そのあとは海上自衛隊)となるものだ。ところが、警察予備隊を作れという占領軍の命令さえ面従腹背だった吉田は、これに難色を示した。旧軍人が勢いづくことで自分の地位が脅かされることを恐れたからだ。

 1年後の9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、7年に及んだアメリカの日本占領が翌年に終わることが決定した。この講和条約と表裏一体をなす日米安全保障条約の調印式もそのすぐあとに行われた。

 その40日後の1951年10月19日、マッカーサーに代わって連合国最高司令官になったマシュー・リッジウェイ大将は吉田首相と直々に会い、18隻のフリゲート艦に加えて50隻の大型上陸支援艇を貸与すると申し出た。吉田はこの申し出を拒否できなかった。

 サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月、アメリカから貸与を受けた艦船をベースに海上警備隊が創設され、野村の悲願は一応成就したが、その3か月前に、あざとくも韓国は竹島を李承晩ラインの内側に含め、不法占拠を始めた。吉田が邪魔しなければ、また野村の動きがもう少し早ければ、竹島問題は今日存在しなかったのだ。

 野村ら旧海軍関係者はフリゲート艦18隻程度の海上警備兵力で満足する気はなかった。さらに航空兵力も加え、空母も保有するような本格的海軍に発展させることを望んだ。それがかなえば、竹島問題などおのずからかたがつくはずだった。手っ取り早くこれを達成するためには野村自らが総理大臣になるしかない。そこで54年春、野村は参議院補欠選挙に出馬することになった。

 驚くのは、これをCIAが支援したことだ。CIA文書は、この機関が選挙の専門家を野村のもとに遣わし、資金提供はもちろん、情勢分析から選挙対策までさせていたことを示している(詳しくは拙著『CIAと戦後日本』に譲る)。とにかく野村を国会議員にし、数年後には総理大臣にしたいと考えていたのだ。

 実際、野村が当選を果たすと、CIA日本支局長ポール・ブルームが勝利を祝福する手紙を同年6月4日付で野村に送っている。

 さらに、ジョン・フォスター・ダレスと野村の間の連絡役を務めていたハリー・カーン(表向きの肩書はジャーナリスト)も6月16日付手紙で野村の当選を国務省政策企画部長のフランク・ウィズナーに報告し、これで野村がポスト吉田の首相候補者になったと喜んでいる。

 注目すべきことに、カーンはこの報告書のなかで、野村が50年から53年まで「われわれの機関の政治問題についての情報提供者」だったと述べている。ウィズナーの当時のポストは、国務省とCIAにまたがるもので「われわれの機関」とはCIAも指している。つまり、野村は彼の悲願に対する支援と引き換えに、CIAや国務省に政治問題についての情報を流していたのだ。

 結局、日米の支援者の願いもむなしく、野村が総理大臣になることはなかった。1955年の保守合同のとき、ダークホースと目されはしたが、自由民主党の初代総裁となったのはやはり鳩山だった。

 その鳩山も旧日本軍人やアメリカ側に対する配慮から野村を防衛庁長官に据えようとしたが、社会党の反対を受けるとあっさりとこれを撤回した。防衛庁長官の次は総理大臣候補になり、自分の地位を脅かす存在になるのはわかっていたので、もともと乗り気ではなかったのだろう。

 カーンやウィズナーは、すでに老齢の野村が入閣を果たすのを待つより、保守合同で指導力を発揮した岸信介を次期首相にする方が早く影響力を振るえると考えを変え、そのための秘密資金の提供を始めた。

 こうして海上自衛隊は、野村が望んだ空母を含む機動部隊を編制できる本格的な海軍には程遠い、小規模地上部隊の輸送力と哨戒能力しか持たないものになってしまった。

●のむら・きちさぶろう/(1877-1964) 和歌山県出身。海軍兵学校卒業後に海軍軍人となる。最終階級は海軍大将。学習院院長、外務大臣、駐米大使、枢密顧問官などを務めた。戦後は公職追放となる。日本ビクター社長を経て1954年に参議院議員になる。

●ありま・てつお/早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授。著書に『CIAと戦後日本』(平凡社新書)、『原発・正力・CIA』(新潮新書)、『アレン・ダレス』(講談社)など。

※SAPIO2016年6月号

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