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疑似科学を支点に、人間性が揺れ世界が軋む

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 宮内悠介の連作《疑似科学》シリーズが一冊にまとまった。扱われる「題材」はさまざまだが。それぞれの疑似科学は積極的な否定も肯定もされず、その渦中や周囲でおこるできごとのうちに人間性の軋みや哀しみ、不可解な感情や感覚が描きだされる。

 最初の作品「百匹目の火神」では、S県歌島の猿が火をおこす方法を覚え、それが土地や世代を超えて日本各地の猿へと伝播する。ある新興宗教団体の教祖がこれは”百匹目の猿”現象だと言い、その言説がまたたくまに世間に広まった。”百匹目の猿”というのはニューサイエンスの仮説で、ある行為(たとえば芋を洗って食う)が群のなかで一般化すると、その群と接触のない別の群にも同じ習慣が発生する現象だ。通常の因果では説明がつかない「共時性(シンクロニシティ)」が働いているとされる。

 各地で猿による放火が発生し、世間では「共時性」が流行語のようにささやかれるようになった。これを否定する科学者もいるが、皮肉なことにふたりの科学者が同時期にメッセージを発信したことで、ひとびとはかえってここにも「共時性」が働いていると捉えた。

 しかし、実際は歌島の群からはぐれた一匹の猿が、海峡をわたり本州を北上しながらほかの群へ火を伝えたことを、フリー記者の「わたし」が一連の事件を追って明らかにしていく。しかし、それが記事になるより先に、猿たちは火を使うのを止めてしまう。

 そこにはいかなる因果が働いているのか? この作品が面白いのはニューサイエンス調の「共時性」仮説をいったん退けながら、なお人間のつながりのなかで「共時性」が(はからずも)構成されてしまうめぐりあわせを描いている点だ。また、猿の存在にも二重の意味がある。物語のなかで猿はまず「共時性」を示す実例(素材)としてあらわれるが、やがて人間の対照項にもなる。つまり、猿は「共時」にせよ「通時」にせよ、人間がすがらずにいられない時間概念とは無縁に生きている。作中で生物学者のひとりは「わたしたち[人間]は壊れた本能の上に文明を築きました。わたしたちが未来を考えるのは、そうしないことには種を延命させられないからです」

 人間は本能が壊れている。科学も宗教も、それをおぎなうために発生した。そう考えれば、疑似科学もたいした違いはない。

 というのはもちろん極論で、疑似科学の”現実的な”問題はそれが詐術的に利用されてしまうこと、あるいは盲信による視野狭窄をもたらすことなどだろう。しかし、この連作ではそういう弊害を俎上にあげているわけではない。

 二篇目の作品「彼女がエスパーだったころ」のヒロイン、及川千晴はスプーン曲げの能力を持っている。あるいは、持っていることになっている。彼女自身は自分が本物だと強く主張するわけでもなく、ひとから求められれば曲げるのを厭わないくらいの使いかたしかしていない。スプーンなど曲げても生活上の役には立たないので、ふつうに就職をする。しかし、仕事のストレスから鬱に陥り、衝動的に大量のスプーンを曲げては放る動画をウェブに公開したところ評判になった。それを世間が勝手に本物か偽者かという喧々囂々の議論をはじめただけだ。事態をややこしくしたのは千晴の夫の死だ。彼がマンションの非常階段から転落死したとき、千晴は明白なアリバイがあったのだが、世間の目はかつてスプーン曲げで評判になった女を疑惑の目で見はじめる。

 ところで、この連作はどれもフリー記者の「わたし」の目を通して綴られる。事件に関わった人物あるいは関連する知識や情報を持つ専門家に取材をしてまとめあげたレポートであり、ほぼ感情をまじえぬ文体だ(デビュー連作集『盤上の夜』に似たスタイル)。ただ、いくら客観に立っているとはいえ、日常的な環境のもとでは絶対的な中立性・検証性(研究室でおこなう科学実験のような条件)を担保しうるものではない。及川千晴にインタビューをしたとき、彼女はわたしが持参したスプーンを飴細工のようにくるくると回して、たちまち龍のオブジェをつくりあげてしまった。そして言う。「こんなもの、曲がらなければよかった」。曲がったのはスプーンだけではなく彼女自身の人生もなのだが、さらに言えば疑似科学の傍観者だったわたしの人生もここでほんのすこし曲がる。そして、そのズレは後半のエピソードで大きな湾曲になって跳ね返ってくる。

 三篇目の「ムイシュキンの脳髄」は、これが年刊SF傑作選『さよならの儀式』(大森望・日下三蔵編、創元SF文庫)に収録されたときにふれた。脳外科手術オーギトミーによって人格がかわったミュージシャンが、殺人事件の容疑者になる。動機は手術によって人間性を剥奪されたことと推測されるが、当のオーギトミーは犯罪気質・暴力気質をピンポイントで破壊する施術なので、ふつうに考えれば道理に合わない。「彼女がエスパーだったころ」につづき、物語の途中でひとが死に、それにまつわる謎を解明していくミステリの運びだ。しかし、謎が解けても世界は元へは戻らない。

 焦点は自己同一性の根拠だ。オーギトミーは暴力性の排除からダイエットまでさまざまに応用できる。しかし、脳をカスタマイズした人間は元の人格ではないのではないか? はたして、どこまでが倫理の許容範囲と見極めえるものだろうか?

 四篇目の「水神計画」では、「ありがとう」と語りかけることによって水を浄化する思想、五篇目の「薄ければ薄いほど」では〈量子結晶水〉なる妙薬(成分が薄いほど効果があるという発想に基づいてつくられた水)が題材だ。ただし、どちらの疑似科学も、これを採用している組織はそれを大々的に喧伝しているわけではなく、むしろ自分たちの理論は非科学的と認めたうえで、なるべくマスメディアに露出しないように活動をしている。暴利を貪るわけでもなく、むしろ善意と無私に基づいている。他人に考えを押しつけることもしない。にもかかわらず、悲劇は起こるのだ。

 それは疑似科学そのものの非真実性によるものではない。あるときは自分を何かに託さずにはいられない人間の「弱さ」であり、あるときは疑似科学に対して(肯定的であれ否定的であれ)過剰に語らずにはいられない世間の「どうしようもなさ」が、引き金になる。

 第六篇にして最終篇の「佛点」は、カルト化したAA(アルコール依存治療の自助グループ)が描かれる。カルト化の求心力となるのは、「転換点(ティッピング・ポイント)」と呼ばれる現象だ。集団の性質がいっせいに塗り替わる瞬間があり、それは少数者によって引きおこされる。それが事実なら自分たちが変われば社会も変えられる。アルコール依存症から抜けだそうと苦しんでいるメンバーは、この考え方が僥倖のように感じられ、グループの嗜虐的な儀式に進んで参加してしまう。

 事情を知った語り手のわたし(この時点では記者稼業をやめて零細ベンチャーに勤めている)は、逡巡する。それまでの事件を通じて知ったのは、一般的な良識や正義で行動することがかならずしも益になるとはかぎらないことだ。グループの参加者を連れだしても、マインドコントロールは容易には解けない。

 この作品にはふたたび、スプーン曲げの及川千晴が登場し重要な役割を果たす。彼女は「最近、あたし、テレポーテーションができるようになったみたいで……」ととんでもないことを言いだす。それに対して、語り手はツッコミもしないところが面白い。信じているわけでも疑っているわけでもなく、ただ聞いている。しかし、これが思わぬかたちで結末につながっていくのだが、それは読んでのお楽しみ。

 それにしても『彼女がエスパーだったころ』をひとつらなりの物語として読むと、エンディングのあとあじの良さは驚異的だ。なにしろ題材が題材だし、一篇一篇はかなりダウナー気味なのだ(絶妙のユーモアがところどころに埋めこまれてはいるが)。それが最後の最後に至って、「彼女がエスパーだったころ」のタイトルの印象が淡く明るい色調へと転ずる。

(牧眞司)

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