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初めてでもマニアでも楽しい警察小説の金字塔

初めてでもマニアでも楽しい警察小説の金字塔

 現代スウェーデン・ミステリーの産みの親というべきマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーが手がけた〈刑事マルティン・ベック〉シリーズは、その後の北欧圏の後続作家に多大な影響を及ぼした。いや、シリーズ第4作の『笑う警官』が英訳版がアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の最優秀長編賞(エドガー賞)を授与されていることからも判るとおり、その影響力はヨーロッパの一地方に留まるものではない。

 シリーズの邦訳は、かつて1970年代に高見浩によって手がけられ、全10作すべてが刊行された。ただしそれは英訳版からの重訳だったため、現在、スウェーデン語翻訳家の柳沢由実子によって原書からの直接新訳が試みられている。代表作『笑う警官』が刊行されたときに本欄でも扱ったが、その後はシリーズ作品が順番に翻訳されることになり、第1作『ロセアンナ』(旧題『ロゼアンナ』)が昨年9月、第2作『煙に消えた男』(旧題『蒸発した男』)がこの4月に刊行された。未読の方はぜひこの機会に、第1作から手にとってもらいたい。

 シリーズについて簡単に説明しておく。これはスウェーデンの首都ストックホルムを舞台にした連作だ。主人公のマルティン・ベックは、スウェーデン警察本庁刑事殺人課に所属、21歳に勤め始めて以来、人生の半分を警察官として過ごしてきた。本人に能力をひけらかす意図はないが、彼をスウェーデンでもっとも優秀な犯罪捜査官だと評する者もいる。『ロセアンナ』で登場したときの彼は、気管支が弱く、いつでも鼻風邪を引いているような中年男として描かれた。妻との間に2人の子供がいるが、夫婦仲は冷え切っている。どこにでもいるような平凡な外見が非凡な事件に関わるという対照の妙、そして生き方は器用ではなく家族ともうまくやっていけないような人間が犯罪捜査には真剣に向き直っていくというキャラクターのありようは、警察小説における主人公像の一典型となった。ベックには気のいい友人で有能なコルベリ、なんでも記憶していて臭いパイプ煙草を吸うメランダー、後に登場する海軍上がりのラーソンなどの同僚がおり、彼らとのチームワークで事件捜査は進行していく。

 第1作の『ロセアンナ』は、ある女性の惨殺死体が見つかることから始まる小説だ。最初はその身元さえ判らず、彼女がアメリカからの旅行者であることが判明した後は、国内のどこで殺人者と接触したのか、という足取り調査にベックたちは忙殺されることになる。容疑者が登場するまで延々と捜査の模様が描かれるのだ。単純極まりない筋立てだが、逆にいえば簡単な骨組みなのに長編小説として成立してしまっているところが凄い。北欧ミステリーの1つの特徴として、プロットが非常に強く、枝葉の部分を必要としないほどに主筋のストーリーラインが太いということが上げられる。1つの関心で読者を惹きつけていくのが巧いのだ。『ロセアンナ』はそうした潮流を作り上げた原型のような作品だ。

 続く第2作の『煙に消えた男』は警察小説としては変化球といってもいい作品である。今回ベックの主戦場となるのはストックホルムではない。それどころかスウェーデン国内でさえなく、ハンガリーのブダペストに行かなければならなくなるのだ。

 スウェーデン人のジャーナリストがブダペストで失踪する。作品が書かれた1966年は冷戦の緊張が高まっていた時期であり、この事件が政治的に利用されれば、スウェーデンは国際紛争に巻き込まれる危険があった。そのため夏季休暇に入ったばかりのベックが呼び戻され、極秘裏にブダペストに送り込まれることになるのである。

 なんの権限も持たない異国の地での捜査は遅々として進まない。ここは『ロセアンナ』と同じで、あくまで等身大の視線の高さで作者はベックの行動を綴っていく。作品が発表された当時はちょうどスパイ小説ブームの真っ盛りでもあった。007号などのスーパースパイに対するアンチテーゼとして『煙に消えた男』を読むことも可能だろう。本書でベックはハンガリー美女からの誘惑を受けるのだが、その対処もスーパースパイたちとはまったく異なっている。

 やや話は逸れるが、1990年代にシューヴァル&ヴァールーの正統な後継者と言われたヘニング・マンケルは、自身の〈クルト・ヴァランダー〉シリーズの第2作『リガの犬たち』(創元推理文庫)でやはり主人公を異国の地に飛ばせた。おそらく『煙に消えた男』を意識していたのだろう。

 閑話休題。本書は警察小説が国際陰謀小説との設定を持ちうることを示すと同時に、捜査官という人種がどういう精神構造を持つものかを浮き彫りにした小説でもあった。第1作『ロセアンナ』で登場したベックのキャラクターは本書で読者に強く記銘されたのだ。

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