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認知症介護小説『その人の世界』vol.12

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あの二人は私を殺そうとしている。

最近の夫は何を考えているのか、朝と夕方に家政婦を雇い始めた。確かに私はからだが昔から丈夫ではなく、人が簡単に思うような家事でも夫の手を借りることが多かった。買い物に行く時は運転をしてもらっていたし、布団干しで倒れて心配をかけたこともある。

けれど夫は嫌な顔ひとつせず、いつも家事に協力してくれた。近所の人が冷やかすほど仲の良い夫婦だったのだ。

ところがある日、若い女性を紹介され、この人がうちの家政婦だと言われた。愛想の良い女性だった。夫が私に何のことわりもなく決めごとをしたのはこれが初めてだった。

その家政婦は、はじめは週に2日やってきた。朝食の支度をして私に食べるようにすすめる。食後には決まって薬を飲むように言ってきた。夕方になると夫が毎回必ず朝と同じ薬を飲むようにすすめてきた。

これが何の薬なのかよく分からない。たずねても、二人は整腸剤だと答えるばかりだった。そんなものはいらないと答えても、しつこいほどすすめられる。しぶしぶ口に入れながら、よく分からないものは飲みたくないといつも思っていた。

次第に家政婦の来る日数は増え、ほとんど毎日来るようになった。夫は私よりも家政婦とよく話をした。何を話しているのか分からないが楽しそうに見え、私は会話に入ることをためらった。

家政婦が帰り私と二人になると、夫は不機嫌そうに見えた。どんなに優しい夫でも、やはり健康で若い女性と話すほうが楽しいのだろう。私はこれまで夫にかけてきた苦労と、鏡に映った自分の姿に気分が沈んだ。

月日が流れるほどに沈んだ気分は、やがて苛立ちに変わった。あの女が鳴らす玄関のチャイムに無性に腹が立ち、笑顔で招き入れる夫に殴りかかりたい衝動にかられた。

「はい、食後のお薬」
いつものように愛想よく女が言った。私が食べ終えた朝食の食器を、女が台所に下げた後のことだった。

「そんなの飲みたくない」
私はわざと女と反対のほうを向いて腕組みをした。

「整腸剤ですよ。お薬はお医者さんが出した通りに飲まないといけないですからね」
「私はどこも悪くない」
「お薬を飲んでいるから元気なんですよ」
「分かったようなこと言わないでよ。医者でもないくせに。あなたには関係ないでしょう」
「お食事をつくる時には健康のことも考えていますからね。心配なんですよ」
「私は頼んでいない」

「いいかげんにしなさい」
台所で緑茶を淹れていた夫がたまりかねたように口を挟んだ。

「何が」
私は眉をひそめて夫を見た。

「おまえのために考えてくれているんだ。毎度毎度わがままを言うんじゃないよ」
「何が私のためよ!」
「いいから薬を飲みなさい!」

夫が声を荒げたことなど私の記憶にはない。夫には何も言ってほしくなかった。家政婦なんていらないと本当は言いたかった。何も言わずに耐えてきたけれど心はみじめだった。このからだでは夫に苦労をかけ続けてしまうと思うから黙っていた。けれどもう限界だ。

「そうやって二人して私を殺そうとしているんでしょ!」
「何てことを言うんだ!」
「だってそうじゃない! よく分からない薬を無理に飲ませて! 私を殺して二人で仲良く暮らしたいんでしょ!」
「怒るぞ!」

穏やかな夫が目をむいた。そんな夫の目を見たのは初めてだった。強く睨み返したいのに、こみ上げる涙が邪魔をした。

「もう、もう怒っているじゃない。その人のために、そこまでむきになるのね。もう、私のことを嫌いになったんでしょう。私はからだが弱くてあなたに苦労ばかりかけてきたし、年をとってきれいでもなんでもないし、料理もその人のほうが上手なんだろうし、私なんかいないほうがいいんでしょう。私なんか役立たずで、本当は捨てたいんでしょう」
幾すじも頬を伝った雫を、私は子どものように手の甲で拭った。

「今まで本当にごめんなさい。これまでたくさん苦労をかけてきたんだもの。私もう、死んでもいい。死にたい……」
私は両手で顔を覆うと、低く泣き声を上げた。

子どもの頃から、お前は結婚なんかできないと親に言われていた。からだが弱いだけでなく、器量も要領も悪い。会社勤めを続けて地味に人生を終えるのだと自分に言い聞かせながらタイプライターを打つ日々だった。

そんな私の前にあなたは現れた。私なんかにどうして親切なのか分からなかったけれど、あなたの優しさに触れるたびに自分を好きになれた。あなたといる時の自分が、一番好きだった。

「謝るのは私のほうです……」
小さく呟いたのは家政婦だった。

「そんなふうに苦しめていたなんて、思いもしませんでした。私は自分の決められた仕事をきちんとこなすことばかり考えていて……。ご主人と契約していましたから、ご主人とお話することがどうしても多くなっていました。けれど、私は大事なことを忘れていたと思います」
そこまで言うと、家政婦は手にしていた薬を見つめた。

「本当のプロならば、飲むことを分からせようとするのではなく、なぜ飲みたくないのか、どうしたら飲もうと思えるのかを考えるのでしょうね。決められたことを時間内に終わらせようとするあまり、相手の気持ちを分かろうとすることを怠っていました。そしてそのことがこんなにも苦しめていたなんて思いもせず、本当に申し訳ありませんでした」
家政婦は深々と頭を下げた。その姿がしおらしく見えるほど、上手く演技するものだと思わずにはいられなかった。

「そんな、取って付けたようなこと言わないでよ」
私は細い目で家政婦の姿をとらえた。
「そう言われても仕方ないです」
頭を上げた家政婦は声を落とした。

「私は……」
重く口を開いたのは夫だった。夫はゆっくりと近づいて私の正面に座ると、テーブルの上で拳を握った。

「最近、余裕がなかった。私も……年をとったものだ。自分のことで精一杯で、おまえのことになるとつい感情的になっていた。すまなかった……」

うなだれた夫の姿が痛々しかった。反面、何もかも演技に見えた。私はそんなに簡単に騙されたりしない。

「ご主人……」
家政婦の声は潤んでいた。
「ご主人は、とても愛されているんですね。どうでもいいと思ったら、感情など動きませんもの」
夫は自身の拳から視線を外さなかった。家政婦は続けた。
「私これから、どんなこともご主人とだけでなく三人で相談します」

私は黙っていた。そんなことを言っても、私のいない所でこそこそ話し合うことだってできる。その方がかえって信用できない。

「今日はここで失礼します……」
家政婦は小さく言うと、荷物をまとめて静かに出ていった。

ドアの閉まる音は心に長い余韻を残した。夫は拳を見つめたまま動こうとしなかった。その時ふと蘇ったのは、出逢ったばかりの夫が繰り返していた言葉だった。

「きみといる時の自分が、一番好きなんだ」

ふわりと吹き込んだぬるい風がレースのカーテンを揺らした。
窓が小さく開いていた。

※この物語は、著者の介護体験をもとに訪問介護の場面を描いたフィクションです。

あとがき

行動心理症状と呼ばれるもののひとつに「妄想」があります。他者の説明に対して訂正不可能な確信が妄想だと言われています。それは身近な人に向けられ、過去の出来事と関連しています。そして、自信がなく立場的に弱い人に多いようです。

今回は「嫉妬妄想」を取り上げてみました。本文中にも書きましたが、対象が大切であるからこそ現れるものだとわたしは思っています。大切なものを失うかもしれない恐れから自分を守るために必死なのですよね。そんな時にほしいのは説明ではなく、自分の思いを分かろうとしてくれる人の存在なのでしょう。切ない孤独を「異常」と呼ばれることの方が、私はより切なく感じます。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。

真の理解を得るために、物語の力をわたしは信じています。

この記事を書いた人

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出だす。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所を経て、現在は認知症対応型通所介護事業所に勤める。認知症ケアに目覚めて今年で12年目。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書きはじめる。

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