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ドイツの悲劇「ベルリンの壁」があった場所を訪れませんか

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Photo credit: Kazuki Umekawa「北ドイツ、東ドイツ。

こんにちは、Compathy Magazineライターの新田浩之です。
今回は、東西ドイツ分裂の象徴「ベルリンの壁」を紹介します。ベルリンの壁が崩壊して、早27年。ベルリンの壁を知らない人たちも増えてきました。しかし、平和の大切さを考える上でベルリンの壁はぜひ訪れたいスポットです。それでは、ベルリンの壁にまつわる歴史から見ていきましょう。

知られざるベルリンの壁の歴史

ベルリンの壁が作られた背景

知っているようで知らないベルリンの壁の歴史を解説します。そもそも、なぜベルリンの壁が作られたのでしょうか。それには、第二次世界大戦後のドイツの状況を見なければなりません。

第二次世界大戦後、ドイツは日本と同じように連合国に占領されました。ただ、日本と異なる点はドイツは4ヵ国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)に分割統治されたことです。さらに、首都ベルリンも4ヵ国によって分割統治されました。
そして、資本主義陣営(アメリカ、イギリス、フランス)が統治する地域と社会主義陣営(ソ連)が統治する地域で大きく分裂。結果的に、資本主義陣営が統治する地域では「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)が、ソビエト連邦が統治する地域では「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)が建国されたのです。
ベルリンも西ドイツが統治する西ベルリンと東ドイツが運営する東ベルリンに分裂。ベルリンは東ドイツに囲まれていたので、西ベルリンは「陸の孤島」になったのです。

この時点では西ベルリンと東ベルリンの行き来は自由でした。やがて、西ドイツと東ドイツとの経済格差が拡大。さらに、東ドイツ全土で社会主義体制に対する不満から暴動(6月17日蜂起)が発生。その結果、東ベルリンの住民は次々と西ベルリンに移住したのです。

「このままでは、労働力が失われ東ドイツが崩壊する」。そのような強い危機感が東ドイツ指導部にあったのです。ついに1961年8月13日、東ドイツ政府は西ベルリンと東ベルリンとの境界線を封鎖。境界線に壁が築かれました。これが「ベルリンの壁」です。
ちなみに、東ドイツでは「壁が建設された」という表現は用いられず「国境が強化された」という表現が用いられました。この表現にはベルリンの壁が西側帝国主義からの攻撃を防ぐために建てられたのだ、という意味が込められています。

ベルリンの壁による冷たい東西分裂の時代

ベルリンの壁を越えようとした住民に対して、警察は容赦なく発砲。1989年までに136人が亡くなりました。さらに、東ドイツ国民はベルリンの壁に近づくことも禁じられたのです。これで、完全に西ベルリンと東ベルリンの交流はストップしてしまいました。

ただ、現在の南北朝鮮と当時の東西ドイツの状況は異なります。1970年代、東西ドイツはお互いの「国家」を認め合う融和路線に方針を転換。1971年、西ドイツ住民は時間制限付きで東ドイツに行くことが可能になったのです。ただし、東ドイツの住民は西ドイツに行くことはできませんでした。それでも、1970年代を契機に東西ドイツの交流が始まったのは事実です。

東欧諸国に吹いた自由化の風

東欧諸国の住民もソ連をバックとする共産主義体制に苦しめられてきました。風向きが変わったのが1975年の「ヘルシンキ宣言」。この会議では戦後ヨーロッパの秩序の維持と人権の尊重が話し合われました。
ソ連を始めとする東欧諸国は戦後秩序の維持を第一目的とし、人権の尊重が謳われた「ヘルシンキ宣言」に調印。もちろん、東欧諸国の指導者は「ヘルシンキ宣言」を遵守しなかったのですが、各国の反体制運動家は「ヘルシンキ宣言」の履行を政府に求め、反体制運動が活気づいたのです。

1985年、ゴルバチョフがソビエト連邦書記長に就任。「ペレストロイカ」(改革)と「グラースノスチ」(情報公開)を掲げ、ソ連国内の改革を断行。東欧諸国には内政不干渉(新思考外交)を発表しました。
そして、1989年、ハンガリーが西側の国オーストリアとの国境を開放。東ドイツ住民はハンガリー経由で西側に逃れたのです。もちろん、東ドイツ、東ベルリンでも自由化を求めるデモが活発化したのです。しかし、頑迷な東ドイツのホーネッカー書記長は最後まで自由化を拒否し続けました。

ついにベルリンの壁崩壊

自由化の流れに抗い続けたホーネッカーでしたが、ついに1989年10月17日、ホーネッカーは書記長を解任されます。そして、1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。1990年10月3日、東西ドイツが統一されたのです。 

ところで、ベルリンの壁が崩壊した裏にはある「勘違い」があったのをご存知ですか。実は東ドイツの当局者が記者会見の際、書類を勘違いしてこのように発言したのです。(ベルリンの壁崩壊は)「今でしょ」と。これを聞いた東ベルリン住民が一気に壁に押し寄せ、崩壊につながったのです。「勘違い」が崩壊につながるというのも、すごいドラマですね。

Photo credit: satomi「2010年の年越しをベルリンのブランデンブルク門の前でするための旅

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