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『真田丸』で注目の本多忠勝 ファンを惹きつける魅力

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 NHK大河ドラマ『真田丸』において、独特の存在感を放っているのが藤岡弘、演じる徳川家臣・本多忠勝である。「徳川四天王」の一角として、最強の武将と称される彼の史実を紐解くと、豪快な中に潜んだ繊細さや優しさを持つ忠勝像が見えてくる。ファンを惹きつけて止まない魅力はどこにあるのか。

 2月14日放送のNHK大河ドラマ『真田丸』(第6回)でこんな場面があった。

 大阪・堺を遊歴中に「本能寺の変」を聞かされた徳川家康は、難所「伊賀越え」を終え、居城である浜松城に戻り側室の阿茶局と休養していた。そこへ鎧をまとった本多忠勝が、主君である家康の眼前に恐縮する素振りもなくドッカと座り込む。重みでほこりが舞い散り、阿茶局が思わずせき込む。

 疲労困憊している家康とは対照的に「一晩で回復しました」とケロリとしていた忠勝がその場で明智討伐を提案し、家康は面食らう。「兵を出すと伝えておき、後はのらりくらりと」そんな側近の提案に頷く家康に対し、苦虫を噛み潰したような顔でこう一喝する。

「そのような真似は、好きではありません!」

 藤岡自身も役作りのために30kgを超える鎧を着用、身長180cmという体格や無骨な風貌が大河ファンからも「忠勝像とピッタリ」と称賛されている。

 本多忠勝(通称・平八郎)は徳川四天王の1人で、「戦国最強の武将」とも称される。徳川家康の江戸入府とともに忠勝の居城となった大多喜城の跡地にある、千葉県立中央博物館大多喜城分館の一場郁夫・主任上席研究員はこう語る。

「『家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八』との狂歌が、木札に書かれていたという逸話があります。

 これは忠勝が24歳の時の1572年、大軍を率いる武田信玄との『一言坂の戦い』において、家康が窮地に陥り退却せざるを得なくなった際、忠勝が殿を務め、不利な地形でありながら奮戦、家康を救った武勇を、勝利した武田方が褒め称えた歌です。

 唐の頭とは、中国(唐)から輸入された動物のヤクの毛でつくった兜の装飾品のことで当時の高級品(家康が愛用していたといわれる)。それくらい本多忠勝が、武将として優れていたことを表わしています」

 忠勝は主君である家康を「一喝」したことでも有名だ。

 肥前平戸藩4代藩主・松浦鎮信が記した戦話『武功雑記』によれば、堺遊歴中の家康が主君・織田信長が討たれた「本能寺の変」を聞き、狼狽して「自分も京都の知恩院で腹を切る」と言ったのに対し、「ここは何とか生き延びなければ」と家康を諫めた。

 我に返った家康は三河まで戻る手立てを考え始めたと伝えられている。前述したとおりドラマでも、家康に冷静沈着な物言いで伊賀越えを進言する姿が描かれた。

 そんな忠勝には様々な伝説が残るが、大きな魅力はなんといってもその強さにある。一場氏が解説する。

「忠勝は13歳の時に、『桶狭間の戦い』の前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾ってから、大小50数回の戦いで一度も手傷を負わなかったと言われています」

 鳥屋根城攻めに参加した14歳で初めて敵の首を討ち取ったが、その際にはこんなエピソードもある。

 一緒に戦った叔父の忠真は忠勝に初首を挙げさせようと敵兵を抑え、忠勝に首を取るように言った。ところが忠勝は「なぜ私は人の力を借りて、武功を挙げなければならないのか」と言って自ら敵陣へ向かい、敵の首を挙げたと伝えられている。幼い頃から備わった勇猛果敢さを物語っている。

 忠勝の武術における相棒であり、象徴ともいえるのが「蜻蛉切(とんぼきり)」という長槍だ。長槍の柄の部分は通常4.5mほどだったが、蜻蛉切は6mもあった。

「室町時代の刀鍛冶、村正の流れを汲む藤原正真が鍛えた槍で『天下三名槍』の一つです。凄まじい切れ味を誇り、戦場で槍を立てていた時に槍の穂先に蜻蛉が止まった瞬間、真っ二つに切れたという伝説から、この名が付いたといわれています」(前出・一場氏)

※週刊ポスト2016年3月4日号


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