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ペルーの英雄・加藤明 葬儀には5万人が参列し大統領が弔辞

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 ユダヤ人をナチスドイツの迫害から救った日本人、杉原千畝は長らく知られざる存在だったが、イスラエルなど海外からの高い評価が逆輸入されて多くの人が知る偉人となった。そして、今や映画化もされた。しかし、我々日本人だけが知らない、世界が称賛する日本人は他にもいる。

 南米・ペルーと日本の関係を考えた時、真っ先に名前が浮かぶのは日系二世のアルベルト・フジモリ元大統領だろう。しかし現地の人々はこう口を揃える。

「国民の英雄としてペルー国民から一番慕われている日本人がいる。アキラ・カトウだ」

 加藤明はバレーボール指導者である。日本女子バレーボールが世界を席巻し、「東洋の魔女」と恐れられていた1965年、ペルー女子チームの監督として招かれた。そして弱小だったペルー女子チームを短期間で世界トップレベル、なんとオリンピック4位にまで引き上げた人物である。

 慶応大バレーボール部で加藤の後輩だった日本バレーボール協会業務執行理事の井原実氏が明かす。

「私が数年前にペルーに加藤さんの墓参りに行った時、たまたま乗ったタクシーの運転手に『アキラ・カトウって知ってる?』と聞いてみたんです。そうしたら彼は『当然だろう。誰でも知っているよ』といって、さらに車を急に停めて近くにいた見知らぬ通行人に『アキラ・カトウを知っているか』と話しかけた。

 突然の出来事に私は戸惑いましたが、その通行人はまるで自分のことのように得意気に加藤さんの功績を話してくれました(笑い)。亡くなってから30年以上経つのに、ペルー国民は加藤さんのことを誇りに思ってくれているのです」

 加藤は大学の先輩だった松平康隆(元日本男子バレーボール監督)を通じてペルー政府から依頼を受け、ペルー女子代表の監督を引き受けた。自らペルー中を回って才能のある選手をスカウトし、世界に通用させるために厳しい練習を課した。あまりのスパルタぶりに、音をあげて逃げ出す選手が続出。ペルーの新聞には「野蛮な国から来た野蛮な監督」と非難されたこともあった。

 だが加藤はペルーの言葉や食べ物、生活習慣、文化を吸収してペルー人の心を理解しようと努め、練習だけではなく精神面や生活面も指導。選手たちとの距離を縮めていった。たびたび選手たちと食卓を囲み、坂本九の『上を向いて歩こう』などの歌を、得意のギターを弾いて一緒に歌っていたという。

 そんな加藤の熱意が伝わり、選手たちは加藤を父のように慕うようになる。激しい練習にも取り組み、チームは力をつけていった。1967年に任期が切れ日本へ帰国することになっていたが、空港で別れを惜しむ加藤と選手たちの姿が新聞で報じられると、「そこまで選手に慕われているのなら」と、さらに1年間の延長が認められた。ペルーチームはその後大躍進を遂げる。

「加藤さんはペルーチームを、就任から3年後の1968年メキシコオリンピックで4位入賞に導き、世界を驚かせました。もちろん一番驚いたのはペルー国民です。弱小といわれた自国チームが強豪国を次々に破っていく姿は非常に痛快だったそうで、今も鮮明に覚えているという話を現地で聞きました」(井原氏)

 しかしその直後、加藤を病魔が襲う。ウイルス性肝炎に倒れ、10年以上の闘病生活の末、1982年にリマ市内の病院で夭逝した(享年49)。死の翌日、ペルーの新聞各紙が「ペルーは泣いている」との見出しで大きく報じた。リマでは教会の鐘が打ち鳴らされ、弔意を表わす車のクラクションが一晩中鳴りやまなかった。

 葬儀には5万人のペルー国民が参列し、当時のベラウンデ大統領が弔辞を寄せた。かつての教え子たちは彼との思い出の曲『上を向いて歩こう』を泣きながら合唱した。

 ペルーの日本人学校で仕事をした経験がある板橋区教育委員会の中川修一・教育長が思い出を振り返る。

「ペルーでは誰もが、加藤さんは『ペルーの恩人』といっていました。ペルーの人々が私を含めた日本人に非常に好感を持って接してくれるのは、加藤さんのお陰なのでしょう」

※週刊ポスト2016年1月1・8日号


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