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第三の言語で書かれたエッセイ『べつの言葉で』

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第三の言語で書かれたエッセイ『べつの言葉で』

 小学生のとき、「ゆかりちゃんちってごはんは毎日カレーなの?」と聞かれる。中学生のとき、「髪の毛ふたつに結わえてるとガンダムのララァに似てるね!」と言われ額に赤ボールペンで小さい赤丸を描かれる。大学生のとき、バイト先の先輩から「もしかしてサリーの巻き方知ってる?」と聞かれる。と、大多数の方にくらべたら少しばかり多めにインド関連のネタを持っている私は、同じ1967年生まれということもあってジュンパ・ラヒリ氏にはかなり注目してきた。そのラヒリ氏がローマに移住したことまでは知っていたが、このたびなんとイタリア語で書いた作品が出版されたというではないか。「インド系としての私たちのアイデンティティはどうなるの? ジュンパ!」という気持ちで読み始めたのだが(注:私は純日本人です)、翻訳を読む限り英語で書かれたこれまでの作品とイタリア語で書かれた本書に違いがあるかどうかはわからなかった(原文で読んだらもっとわからなかっただろう)。

 本書には著者がイタリアの週刊誌「インテルナツィオナーレ」に連載したエッセイ+短編2編が収録されている。訳者あとがきによると、イタリア人編集者たちはラヒリ氏の新しい言語で表現したいという願いを理解し、彼女のイタリア語の未熟さや不完全でぎこちない文章の実験的な性質を尊重したという。それに関連して編集長が、「英語訳をどうするかがすでに問題となっているが、考えてみるとこれは困難な仕事となるだろう。なぜなら、文章の小さなまちがいや欠陥、わずかに調子のはずれた言葉の選択などが見逃されてしまう恐れがあるからだ。この六か月間に、それがどう進化していくかを感じながら読むのも、一つの興味深い読み方だったのだから」と述べているそうだ。そして訳者の中嶋浩郎氏も、「残念ながら、これは日本語訳にも同じことが言える。たしかにラヒリのイタリア語には不自然な言い回しや意味のわかりにくい文などがあったのだが、連載が進むにしたがい、少しずつこなれたイタリア語になっていった。だが、そのような細かいニュアンスを翻訳で伝えるのは難しいだろう」と同様の意見を書かれている。とはいえ本書の訳文に関して言うなら、エッセイにおけるイタリア語へのあふれ出す情熱や、短編における誠実さや繊細さは十分に再現されていると思う。中嶋氏にとってこの翻訳は「好きな作家だったジュンパ・ラヒリを翻訳するという、まったく思いがけない幸運な機会」だったとのことだ。結局は創作にしても翻訳にしても対象への愛情が最も重要だということかと思う。

 短編2編はごく短いものでありながら、ラヒリ氏がイタリア語をどれだけ必要としているかを暗示している。「取り違え」は別の人間になりたいという願望を持つ翻訳家の女性が主人公。翻訳家の女性は自分の存在の印を消し去るため、友人や家族や愛する男性とまで距離を置いて、自分を知る者もおらず言葉もわからない町へ引っ越す。持って行ったのはできるだけシンプルな黒い服ばかり。その町では、夜はよく眠り朝は何の不安もなく目覚め、かつてないほど生き生きしていると感じる日々を過ごす。ある日雨宿りの最中に、彼女はさまざまな女たちが門を出入りしていることに気づく。女たちにつられて入ったそのアパートには、プライベートな招待状を持ってそこに来なければ手に入らない服をデザインして売る女主人の家があった。その場で売られている服も黒だったのだが、そこで主人公は自分が着てきたセーターをなくしてしまう…。「薄暗がり」では2か月に及んだ外国滞在から帰宅した男性が夢にうなされ妻の隣で目覚めるところから物語が始まる。暗い田園風景の中を男性と妻がドライブしているのだが、その車にはボディーがまったくなかったという奇妙な夢を見たのだった。危ないと思った彼は運転している妻に止まるよう言おうとするものの声は出ず、彼女は危険にまったく気づいていなかった様子。夢から覚めてみれば、現実の妻はまだぐっすり眠っていた…。

 「取り違え」の主人公は今まさに異文化の真っ只中で過ごしているし、「薄暗がり」の主人公は直前まで外国に身を置いていた。いずれのキャラクターにも著者自身の分身としての側面があるに違いない。ラヒリ氏は本書のエッセイにおいて、繰り返しイタリア語を学ぶことを通して自らの存在意義を確認しようとしている。そこには、もともとの母語はベンガル語だが、自分という人間を形成したのは英語であるという、どちらの言語にも帰属していない著者を取り巻く複雑な状況があるからだろう(ほぼ単一の民族しか存在しないような国で育った日本人には、なかなかピンとこない感覚かもしれない)。完璧な英語力とアジア系の容姿を持つラヒリ氏(余談だがすごい美人)。アメリカではその容姿ゆえに「なぜベンガル語ではなく英語で書くのか」と聞かれ、インドでは人々の先入観ゆえに著者を小さい頃から知っている親戚以外のほとんどが「インドの外で生まれ育った彼女は英語しか話せない(もしくはベンガル語はほとんどわからない)だろう」と思い込んでいる。

 作家である彼女が言語との一体感を持ちきれずにいるのはさぞきついことだと思う。ただ、一方でラヒリ文学はその揺らぎのようなものからこそ生まれてきたのだと考えれば、決して価値のない悩みではない。エッセイと小説の両方を読めることで、本書は著者の心情と創作活動は往々にして密に影響し合うものだということがよくわかる一冊となっている。著者はデビュー後間もなくから数々の賞(新人作家には異例のピュリッツァー賞まで!)を受賞し、着実にキャリアを積み重ねてきた。15年選手となった現在でもみずみずしい感性を失うことなく常に向上心を持ち続ける姿勢は好ましく、もはや”どの言語で書いてもラヒリはラヒリ”という域に達していると思う。母国語すら時におぼつかない身からすれば第三の言語を学ぶことが精神の安定につながるとは想像を絶するほどの才能だ。ラヒリ氏がいつの日か心の安寧を得られることを祈りつつ、彼女の心の動きのすべてが作品の糧になることを願ってやまない。

(松井ゆかり)

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