暴言と知性について

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暴言と知性について

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究所』からご寄稿いただきました。

暴言と知性について

松本復興相が知事たちに対する“暴言”で、就任後わずかで大臣を辞任することになった。
この発言をめぐる報道やネット上の発言を徴して、すこし思うことがあるので、それについて書きたいと思う。

松本大臣が知事に対して言ったことは、そのコンテンツだけをみるなら、ご本人も言い募っていたように「問題はなかった」もののように思われる。
『Youtube』で見ると、彼は復興事業は地方自治体の自助努力が必要であり、それを怠ってはならないということを述べ、しかるのちに「来客を迎えるときの一般的儀礼」について述べた。
仮に日本語を解さない人々がテロップに訳文だけ出た画面を見たら、「どうして、この発言で、大臣が辞任しなければならないのか、よくわからない」という印象を抱いたであろう。
傲慢さが尋常でなかったから、その点には気づいたかもしれないが、“態度が大きい”ということは別に政治家が公務を辞職しなければならないような重大な事由ではない(それが理由になるなら、石原慎太郎氏はとうに辞任していなければならない)。
だから、問題は発言のコンテンツにはないのである。
発言のマナーにある。
自分の言葉を差し出すときに、相手にそれをほんとうに聞き届けてほしいと思ったら、私たちはそれにふさわしい言葉を選ぶ。
話が複雑で、込み入ったものであり、相手がそれを理解するのに集中力が必要である場合に、私たちはふつうどうやって、相手の知性のパフォーマンを高めるかを配慮する。
たいていは、低い声で、ゆっくりと、笑顔をまじえ、相手をリラックスさせ、相手のペースに合わせて、相手が話にちゃんとついてきているかどうかを慎重に点検しながら、しだいに話を複雑な方向にじりじりと進めてゆく。

怒鳴りつけられたり、恫喝(どうかつ)を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない。
だから、他人を怒鳴りつける人間は、目の前にいる人間の心身のパフォーマンスを向上させることを願っていない。
彼はむしろ相手の状況認識や対応能力を低下させることをめざしている。
どうして、“そんなこと”をするのか。
被災地における復興対策を支援するというのが、復興大臣の急務であるとき、被災地の首長の社会的能力を低下させることによって、彼はいったい何を得ようとしたのであろうか。

人間が目の前の相手の社会的能力を低下させることによって獲得できるものは一つしかない。
それは“相対的な優位”である。
松本復興相がこの会見のときに、最優先的に行ったのは、“大臣と知事のどちらがボスか”ということを思い知らせることであった。
動物の世界における“マウンティング”である。
ある種の職業の人はこの技術に熟達している。
大臣のくちぶりの滑らかさから、彼が“こういう言い方”を日常的に繰り返し、かつそれを成功体験として記憶してきた人物であることが伺える。
それ自体はいいも悪いもない。
ひとつの政治技術である。
それが有効であり、かつ合理的である局面もあり、そうでない場合もある。
今回彼が辞職することになったのは、政府と自治体の相互的な信頼関係を構築するための場で、彼が“マウンティング”にその有限な資源を優先的に割いたという政治判断の誤りによる。

気になるのは、これが松本大臣の個人的な資質の問題にとどまらず、集団としてのパフォーマンスを向上させなければらない危機的局面で、“誰がボスか”を思い知らせるために、人々の社会的能力を減殺させることを優先させる人々が簇生しているという現実があることである。
“ボスが手下に命令する”上意下達の組織作りを優先すれば、私たちは必ず“競争相手の能力を低下させる”ことを優先させる。
自分の能力を高めるのには手間暇がかかるけれど、競争相手の能力を下げるのは、それよりはるかに簡単だからである。
ある意味で単純な算術なのだが、この“単純な算術”によって、私たちの国はこの20年間で、骨まで腐ってきたことを忘れてはいけない。

コミュニケーションを順調に推移させるためには、「相手が自分の言うことを理解できるまで、知的パフォーマンスを向上させるためにはどうすればいいのか?」という問いが最優先する。
少なくとも30年間の教師生活において、私はそのことを最優先の課題としてつねに考えてきた。

学生に向かって「お前はバカだ」とか「お前はものを知らない」というようなことを告げるのは(たとえそれが事実であったとしても)、教育的には有害無益である。
「お前はバカだ」と言われて、頬を紅潮させ、眼をきらきらと輝かせて、「では、今日から心を入れ替えて勉強します」と言った学生に私は一度も会ったことがない。
教師として私は、若者たちに“知性が好調に回転しているときの、高揚感と多幸感”をみずからの実感を通じて体験させる方法を工夫してきた。
その感覚の“尻尾”だけでもつかめれば、それから後は彼ら彼女らの自学自習に任せればいい。
いったん自学自習のスイッチが入ったら、教師にはもうする仕事はほとんどない。
読みたいという本があれば貸してあげる、教えてほしいという情報があれば教えてあげる、読んでくれという書きものをもってきたら添削する、行きたいという場所があれば案内する、会ってみたいという人がいれば紹介する……それくらいのことである。
それで十分だったと教師生活が終わった今でも思っている。

現状認識やなすべき手立てについて、自分と考え方が違う人と対面状況に置かれたときに、多くの人は、両者の意見の相違の理由をもっぱら「オレが利口で、あいつがバカだから」と思い、口にもする。
だが、当人が言うように、知的力量にほんとうに天地ほどの差があるのなら、相手を説得するくらいのことはできてよいはずである。
クリアーなロジックで、平明な文体で、カラフルな比喩を駆使し、身にしみる実例を挙げて、「なるほど……そう言われれば、そうですね」というところまで導けるはずである。
でも、そういうふうな話し方をする人を、私は論争場裏では見たことがない。
論争的場面において、人々は詭弁を弄し、論点をすり替え、相手の思考を遮り、相手が“むずかしいことも理解できるように知性が好調になること”を全力で妨害している。
それは論争の目的が、相手の知性を不調にさせて、ふつうなら理解できることも理解できなくなるように仕向けることだからである。
論争相手を知的に使い物にならなくすることによって“どちらがボスか”という相対的な優劣関係は確定する。
この優劣の格付けのために、私たちは集団全体の知的資源の劣化を代償として差し出しているのである。
よほど豊かで安全な社会であれば、成員間の優劣を決めるために、競争相手を効果的に無能力に追い込むことは効果的だろう。
けれど、それは“よほど豊かで安全な社会”にだけ許されたことであって、私たちの社会はもうそうではない。
私たちは使える知的資源のすべてを最大化しなければどうにもならないところまで追い詰められている。
その危機感があまりに足りない。
メディアの相変わらず他罰的な論調を見ていると、メディアにはほんとうの意味で危機感があるようには思えない。
どうすれば、日本人の知的アクティヴィティは高められるのか、ということを政治家や官僚やビジネスマンやジャーナリストは考えているのだろうか。
たぶん考えていない。
できるだけ“バカが多い”方が自分の相対的優位が確保できると、エスタブリッシュメントの諸君は思っているからだ。
松本大臣の“暴言”は単なる非礼によって咎められるのではなく(十分咎めてよいレベルだが)、この危機的状況において、彼の威圧的態度が“バカを増やす”方向にしか働かないであろうこと(それは日本の危機を加速するだけである)を予見していない政治的無能ゆえに咎められるべきだと私は思う。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究所』からご寄稿いただきました。

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