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さまざまな子どもたちが集うアンソロジー『コドモノセカイ』

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「もう一度子どもの頃に戻りたい」とまっすぐな目で語る人には、うらやましさと同時に懐疑的な気持ちが生じる。私の場合、貧乏家庭ではあったが食べるものがまったくないというほど困窮していたわけでもないし、親からの愛情は惜しみないものであったし、友だちが全然いなくて孤立しているということでもなかった。にもかかわらず、各々がむき出しの感情をぶつけてきたとしても容認されるような、大人とはまったく違った価値基準が存在する子ども時代には絶対に戻りたくないと思っている。編訳者もあとがきで「大人になってからより子ども時代のほうがずっと難儀だった」「ことに幼稚園は、まじり気なしの暗黒時代だった」と語っておられ、ある種の子どもにとっては幼少時代を生き抜くことが過酷としか言いようのないものであることを改めて痛感させられる。

 そう言いながら、長じて子どもというものに対して寛大な気持ちになってきたのは、加齢という現象の好ましい側面だ。結局のところ、子どもじみた振る舞いをスルーできない程度にこちらも子どもであったということだろう。さて、アンソロジー『コドモノセカイ』に収められた作品にはすべて、そういったやっかいさを備えた子どもが登場する。この本に出てくる子たちはとりわけ生きづらさを抱えていそうだ。さまざまな読み心地の作品が収録されているが、つい心を引かれてしまうのは多少なりとも希望を感じられる物語である。

 特に好きだと思ったのは、カレン・ジョイ・ファウラー(全米でベストセラーになった『ジェイン・オースティンの読書会』の著者)による「王様ネズミ」。小学校1年生の冬、クラスの男子に「学校の帰りにお前の顔に雪をこすりつけてやる」と脅かされた主人公は父の職場である大学に向かった。大学内で迷子になった彼女は地下にある動物実験室に迷い込み、そこでノルウェー出身の心理学者であるヴィグドンさんと出会う。こうして、オスロに奥さんと主人公の兄と同い年の息子を残してきたヴィグドンさんとの交流が始まった。彼女の家にクリスマスのディナーにやって来たヴィグドンさんからのプレゼントは『お城とドラゴン–いろいろな国のおとぎ話集』という本。それはまったく彼女のために書かれたような本だった…。

 現在は作家となった主人公の回想としてこの作品は書かれている。作家としての今の自分があるのは2人の男性のおかげだと彼女は考えている、すなわち「刺激−反応心理学の専門家であり、研究室では強化理論を信奉していながら、こと子どもの教育となると、もっぱら昔の教訓話やイソップ物語の効能に頼っていた」彼女の父と、「大きな地球儀をくるくる回して自分の国を指さして教えてくれ、ある年のクリスマスに、わたしが何より必要としていた本を私の元に運んできてくれた」ヴィグドンさん。10ページちょっとの作品の中でもとりわけ印象的な部分のひとつが、「ハーメルンの笛吹き男」に関する考察だ。主人公はこの物語を「童話の古典のなかに、つらくて読めないものがいくつかある」「なかでも群を抜いて嫌い」と評する。私も「ハーメルン」については常々不穏な空気を感じていた。笛吹き男が連れ去った子どもたちを慈しんで面倒をみたとは思えないからだ(どんなに子どもが好きだとしても持て余すような大人数だというのに)。しかし、ヴィグドンさんがくれた本にはそんな悲しいお話はひとつも載っていなかった。そもそも、現実よりつらい話などありはしないのだ。何年もの後にノルウェーで主人公の兄が出会ったヴィグドンさんの口から語られたような話にくらべたら。

 さまざまな出会いが子どもを成長させ、進むべき方向を決めさせる。だとすれば、かつてコドモノセカイに住んでいた私たち大人の責任も重大だ。どんなにつらいことがあったとしても人生は生きる価値のあるものだと、彼らに示さなければならない。オトナノセカイも捨てたものじゃないよ、と。

 岸本佐知子氏は、現在最も信頼されている翻訳者のひとりと言って過言ではないだろう。もう何年も日本の(特にミステリー)作品にしか向いていなかった関心が再び翻訳作品に呼び戻されたのは、岸本さんのおかしみに満ちた翻訳と作品の選択眼のおかげである。おかしみと言えば、岸本エッセイの素晴らしさにも触れないわけにはいくまい。この場で私が言葉を尽くすよりも、一度『気になる部分』(白水uブックス)でも『ねにもつタイプ』(ちくま文庫)でも『なんらかの事情』(筑摩書房)でも、何ならすべてお読みいただければと思う。来月には三浦しをん・吉田篤弘・吉田浩美各氏との共著『「罪と罰」を読まない』(文藝春秋)も刊行される予定。「翻訳家、作家、作家であり装丁家の四人が名著『罪と罰』の内容を僅かな手がかりから推理、その後みっちり読んで朗らかに語り合う」本だとのことで、ヴィグドンさんからの贈り物ばりの素晴らしいクリスマス・プレゼントとなりそう。

(松井ゆかり)

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