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江戸幕府 実は国際情勢に通じペリー来航も事前に知っていた

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 幕末、開国を迫る米国と互角以上に渡り合い、日本に外交的勝利をもたらした「侍」たちがいた。外交交渉に求められる人材、能力とは一体何なのか。作家・歴史家の加来耕三氏が現代につながる視点を考察する。

 * * *
「日米和親条約」と「日米修好通商条約」この2つの条約の締結は、日本が“無理やり”開国させられ、不平等条約を“押しつけられた”出来事として理解されている。だが、事実はそうではない。
 
 1854年2月13日(嘉永七年正月十六日)、ペリー提督率いる米国の黒船艦隊が大砲をちらつかせ再び浦賀沖に現われた。来航の目的は、「漂流民の保護」「外国船への燃料・食料の供給」「貿易の開始」という3つの要求を日本に呑ませることだった。
 
 第1回交渉の際、日本側全権・林大学頭復斎は、特に3番目の交易要求を、「我が国の法によって難く禁じられている」ときっぱり撥ね除けた。林は、幕府の儒官として文教を担った林家の当主である。
 
 ペリーは日本が漂流民を虐待していると非難した上で、米国がいかに強大国であるかを強調。「もし貴国において、これまでの政策を見直さなければ、敵国と見做すほかはない。敵となれば戦争も辞さない」と恫喝してきた。
 
 それでも林は怯まない。ペリーの認識が誤りであることを説き、「わが国は善政を敷いているにもかかわらず“非道の政治”と決めつけられるのは迷惑千万。双方共に積年の恨みがあるわけでもない。強いて戦争に訴えるまでもないと思うが、どうか」と切り返し、ペリーを沈黙させた。

 林は、それまでも行っていた外国船への燃料や食料の供給のため、長崎のほか下田と箱館(のち函館)を開くことを新たに認めた。しかし、港における外国人の行動範囲を厳しく制限し、ついに交易は認めなかった。
 
 同年3月31日(嘉永七年三月三日)、日米和親条約は調印された。「開国=貿易」と考えるなら、この時点で日本は開国していないと言える。
 
 林が鎖国をどうしても守りたかったのは、日本が清(中国)の二の舞いになることを恐れたからだ。同じ鎖国政策をとっていた清は開国後、イギリスとのアヘン戦争に負け、その後遺症に苦しんでいた。
 
 とはいえ、なぜ林はペリーの砲艦外交に屈することなく、互角以上に渡り合えたのか。
 
 ペリーは、かつてメキシコで成功した砲艦外交を日本でも実践しようとした。しかし、準備期間は8か月と短く、ペリーが日本について知っていたのは『ロビンソン・クルーソー』と『ガリバー旅行記』の古い“物語”くらいだった。
 
 一方の幕府は、長崎の出島から「オランダ風説書」というレポートを毎年得ていた。国際情勢が書かれたそのレポートには、ペリーの年齢から詳しい経歴まで書かれており、林はペリーが来ることも、その目的も事前に知っていた。
 
 交渉以前の情報力で、すでに勝負はついていたのだ。

※SAPIO2015年12月号


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