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美川憲一氏 今も貫く「ブルースの女王」から教わった生き方

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 どんな大物だろうと天才だろうと、人生の中では思い悩み苦しむことがあった。そんな時に光を照らし道を示してくれた恩師の思い出は、今も色鮮やかに心に刻まれている。歌手の美川憲一(69)が、そんな恩師たちへ感謝の言葉を語る。

 * * *
 歌手にとっての恩師とは、作詞家や作曲家の先生であることが多いの。例えば私の頃でいえば、星野哲郎先生や船村徹先生の門下生を名乗る歌手が多かったわね。ただ私は少し違った。作曲家の古賀政男先生の指導を受けていて、古賀先生から「(門下生と)名乗っていいよ」と許可もいただいていたんだけど、名乗らなかったの。

 日本コロムビアから分離独立したクラウンレコードにスカウトされてデビューした背景もあり、(日本コロムビア専属の)先生の力を借りずに歌の世界で勝負したかったのが理由ね。

 その後、120万枚の大ヒットになった『柳ヶ瀬ブルース』に出会えたんだけど、作詞・作曲をした宇佐英雄さんは柳ヶ瀬で流しをしていたので師弟関係にはならなかった。船村先生や星野先生に可愛いがられていた北島三郎さんや水前寺清子さんが、正直羨ましいと思ったこともあったわよ。

 でもね、その『柳ヶ瀬ブルース』が私を恩師と引き合わせてくれた。「ブルースの女王」と呼ばれていた淡谷のり子さんとブルースつながりで対談したの。それをきっかけに、色々と目をかけてくれるようになったわ。

 対談で40歳も離れた大先輩の前で、まったく動じることがない新人歌手に興味を持ったんですって。私も淡谷さんのことを母のように慕うようになったわ。

 色んなことを教えてもらったけど、一番身についたのは“歯に衣着せぬ物言い”かしらね。

 デビュー当時の私は「しゃべらない」「動かない」「笑わない」の「三ない歌手」といわれていて物静かだった。直立不動で歌っていた東海林太郎さんから「僕の親戚みたいだね」と声を掛けられたことがあるぐらいよ(笑い)。そんな歌手が今では「芸能界の御意見番」とまでいわれるようになったんですからね。

 淡谷さんに可愛がっていただいたお陰で、ディック・ミネさん、バーブ佐竹さん、美空ひばりさんといった大先輩たちからも親切にしてもらえた。私が歌手デビューする前から大ファンだった越路吹雪さんも紹介してくださった。その越路さんからはこんな話を聞いたわ。

「楽屋でうどんをすすっても、ステージでは一流ブランドのドレスを着る。芸能人は夢を売る商売。貧乏臭くなっちゃダメなの。淡谷先生からオシャレのあり方、ステージでの振る舞い、芸能界での生き方など、いろんなことを教わったわ」

 だから私は今でもその教えに従って、高価な宝石を身に付けて、一流デザイナーのドレスで着飾っているの。

 お陰で老後に食べられるだけの蓄えぐらいしかないのに、世間では芸能界で金を貯め込んでいるのは私と森進一だといわれているみたい(笑い)。淡谷さんの教えをしっかり守っている証かもしれないわね。

 淡谷さんは美に対する意識もすごかった。「私は美人じゃないから磨かないと大変なことになるの」とせっせと自分磨きをされていたわ。

 風邪なのにエステに通って肺炎になりかけたこともあるのよ。米寿を過ぎてもベッドの横には常にハンドクリームやナイトクリームを置いて、いつでもステージに復帰できるように準備されていた。それから見れば私はまだまだ青いわね。

●みかわ・けんいち/長野県生まれ。1965年デビュー。代表曲に『柳ヶ瀬ブルース』『さそり座の女』など。

※週刊ポスト2015年11月27日・12月4日号


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