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調律師をめざす若者の道のり〜宮下奈都『羊と鋼の森』

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 ピアノという楽器はなぜこんなに私たちを魅了するのだろうか。ほんとうかどうかわからないが、初めて弾く人間であってもすぐに音が出せるからだと聞いたことがある。確かに、ヴァイオリンなどの弦楽器やフルートなどの金管楽器やクラリネットのような木管楽器だと、素人ではなかなか音が出ないらしい。でも、それだけの理由ではないはずだ、縦笛やハーモニカやカスタネットなどのように、ピアノ同様簡単に音が出せる楽器は他にもあるのだから。とはいえ、縦笛やハーモニカだと弾きながら歌えないし、カスタネットやタンバリンだとリズムを刻むのが主でメロディを奏でるという感じではない。あと、ピアノは1台あれば連弾ができるのもいい(ロックミュージシャンとかで、12弦並んだデカいギターなどを持っている人がいるが、ふたりで弾くには向いてないだろう。たぶん)。

 これほどに多くの人に愛されているピアノだが、その構造を理解している人はどれくらいいるだろう。弦を鳴らすための部品がハンマーと呼ばれ、それがフェルトでできていることなどこの本を読むまで知らなかった(ピアノを弾く人には自明の知識なのだろうか。私などピアノの内部がどうなっているかについての知識は「トムとジェリー」で得たものがすべてなのだが)。主人公・外村くんは、ピアノの音に魅せられて調律師になることを選んだ。そのきっかけとなったのが、彼が高校生の時に体育館のピアノを調律しに来た板鳥さんと出会ったことだった。板鳥さんが鳴らすピアノの音を耳にして、外村くんは森の匂いを感じる。ここのピアノは古くてやさしい音がする、と板鳥さんは語る。いいピアノは、いい山や野原が作るのだ。いいフェルトを贅沢に使ったハンマーは、いい山や野原でいい草を食べて育った羊の毛で作られるものだから。

 高校を卒業した外村くんは、北海道を出て本州の専門学校で2年間学んだ後、故郷近くの町へ戻って楽器店に就職した。そこは板鳥さんがいる店だった。ふたりの他には、同じく調律師の柳さんと秋野さん、事務の北川さん、社長の江藤さんたちが働く十名ばかりの小さな店だ。話し上手で面倒見のいい柳さんについて初めて調律に行った先で、外村くんは和音と由仁という高校生の双子の姉妹と出会う。周囲の人間からいきいきとしたおもしろいピアノを弾くと思われているのは由仁。しかし、初めて聴いた瞬間から情熱的で静かな音だと外村くんが心を動かされたのは和音のピアノだった…。

 海外の巨匠が来日する際には必ず指名されるほどの確かな腕を持つ板鳥さんの後を追うように、調律師の仕事を選んだ外村くん。その平坦ではない道を、ピアノが弾けるわけでも特に音感が優れているわけでもない外村くんが、もがきながら進んでいく様子が丁寧に描かれる。まだ子どもだった頃の私は、何もしなくてもいろんなことができるのが才能というものだと思っていた。でも、もちろんそんなことはない。才能はトランプのジョーカーのようなものではないだろうか。必要なときに使えなければ役には立たない。こつこつと努力を積み重ねてこそ、力を出せる。毎日素振りを続けてこそ打てる。たゆみなく練習してこそ踊れる。欠かさず実験してこそ理解できる。「外村くんみたいな人が、たどり着くのかもしれないなあ」とは、もともとはピアニスト志望で気むずかしいところのある秋野さんの台詞だ。羊と鋼の森を歩き続けていこうとする外村くんへの祝福のようなこの言葉、物語の終盤どのような場面で発せられたのか、ぜひお読みになって確かめてみてください。

 著者の宮下奈都氏は、当代”どの作品を読んでも間違いない作家”のひとりだと思う。誠実で心に響く小説と、あたたかさとユーモアがにじみ出るエッセイ、どちらも素晴らしいです。ぜひご一読を!

(松井ゆかり)

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