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『ROYAL STRAIGHT FLUSH』シリーズに見る、スーパースター 沢田研二の軌跡

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2015年11月3日、東京国際フォーラムにて全国ツアー『沢田研二 LIVE 2015 こっちの水は苦いぞ』を終了したばかりのジュリーこと、沢田研二。御年67歳にして、毎年の音源リリースと全国ツアーを欠かすことなく、今もなお精力的に音楽活動を続ける、日本芸能史上で他に類を見ないレジェンダリー・アーティストである。現在はほとんどテレビ出演がないこともあり、若い読者の中にはジュリーと言ってもピンとこない人も少なくなかろう。氏は70~80年代の最盛期にいかなる活動を展開し、シーンに何を遺したか? 手元にあるベストアルバム『ROYAL STRAIGHT FLUSH』(I~III)から検証してみよう。
沢田研二『ROYAL STRAIGHT FLUSH』のジャケット写真 (okmusic UP's)

ジョンが亡くなっても、俺たちには沢田研二がいた
矢作俊彦作、大友克洋画による漫画『気分はもう戦争』をご存知だろうか? 198X年X月X日、中ソ戦争が勃発し、そこに参戦した3人の義勇兵の物語を中心に、80年代における“戦争”を、時にコミカルに、時にハードボイルドに、リアリティーあるタッチで描いた傑作である。そのサブタイトル“MONKEY SUITS”という回にこんな件がある。中ソ国境付近(東トルキスタン?)の大麻畑で戦闘が起こり、戦火が畑に燃え移り、その煙ですっかりラリッてしまったソ連兵と主人公たちが、銃弾が乱れ打たれる中、お互いにアッパーになったり、ダウナーになったり、たわいもない会話を続けていく。そこでは、戦闘員に加えて、何故かバスでロンドンからネパールへ向かうヒッピーたちも加わっていて、世界一シュールな戦争が描かれているのだが(※書いていて自分でも意味が分からんと思うが、実際にそういう内容なんだから悪しからず…)、その最中、主人公のひとり“めがね”にソ連兵が「ジョン・レノンがさ──殺されたんだってよー」と告げる。「ポールに?」と受けためがねは、「ジョンがね──知ってた?」と相棒の“ハチマキ”にそのことを伝えるのだが、そこでのハチマキの台詞が振るっているのだ。「騒ぐな! たかが毛唐の楽団屋じゃねーか」「俺たちにはまだ沢田研二がいる!!」。3コマ、ページの1/3程度まので漫画史的に見たら大したインパクトがあったわけではないが、ヒッピー文化の完全な終焉と当時の日本芸能文化を描き切った…と言うと大袈裟かもしれないが、確かな慧眼であったと思う。筆者は当時、少し溜飲を下げた。初版発行が1982年1月だったというから、雑誌連載はおそらく1981年だろう。ジョン・レノンという巨星は堕ちたが、あの頃、俺たちには沢田研二=ジュリーがいたのである。

ロックアーティストとしての秀でた才能
ジュリーがソロ活動に至るまでには、本来なら氏が在籍していたGSナンバー1人気のザ・タイガース、そしてPYGという邦楽ロックの先駆け的バンドについても語るべきだろうが、スペースの都合上、また本コラムの性質上、今回はさすがにそこまでの分析はご容赦願いたい。しかしながら、昭和40年代初頭、圧倒的な人気を得ていたザ・タイガースはもともとリバプール・サウンドに影響を受けたバンドで、メンバーは少なくともデビュー当時には与えられた曲に違和感が抱いていたことや、PYGはアイドル的な人気を誇ったザ・タイガースの解散直後に始動したことで、音楽性が真っ当な評価を得られることなかったこと、他のメンバーの俳優転向等でバンドが自然消滅したことは頭に入れていただければ…と思う(本コラムのアーカイブに『PYG! オリジナル・ファースト・アルバム』紹介があるので、ぜひそちらもご覧いただきたい)。また、ジュリーは当然の如く、今も現役である。しかも、ソロデビュー以来、毎年アルバムを発表し続け、全国ツアーを敢行している。よって、ここでのジュリー分析は、ベストアルバム『ROYAL STRAIGHT FLUSH』シリーズ収録曲、すなわち1972年から1984年までの楽曲に沿ったものであることをご承知いただきたい。ソロ始動時から、バラエティー番組にも出演し、所謂“お茶の間のアイドル”として活動していた頃までのジュリーである。正直に言って、それは筆者がジュリーの全活動歴を把握していないからだが、仮に全活動歴を把握していたとしても、これまたこのスペースでは語り尽くせないだろう。しかし、これは『ROYAL STRAIGHT FLUSH』シリーズを聴いて確信したことでもあるが、ジュリーはこの期間だけでも十分に語り甲斐がある。“お茶の間のアイドル”であったことは紛れもない事実であるが、同時にロックアーティストとしても秀でた才能を発揮し続けた、まさにスーパーマンであったのだ。

ジュリーを取り巻く座組の確かさ
この頃の沢田研二の素晴らしさは、その座組の確かさであったと言っていいと思う。ジュリーのヴォーカリゼーションの艶っぽさは言うまでもないし、ファッションを含めてそのパフォーマンスは超絶に見事だった。もちろんそれは大前提だが、その上で、当代随一と言えるアーティスト、クリエイターたちとタッグを組んだことで、ジュリーは並みのタレントではなくなったのだと思う。映画に例えると分かりやすいかもしれない。黒澤明の映画は氏が監督したから名作になったのではなく、共同脚本執筆に小国英雄、菊島隆三、橋本忍らがいて、撮影は中井朝一、斎藤孝雄、上田正治らが行ない、美術に松山崇、村木与四郎、そして俳優に三船敏郎、志村喬がいたからこそ、その作品を世界に轟かせることができたのである。“沢田研二”(あえて“”で括る)もそれに近いのではなかろうか。作詞家、作曲家、アレンジャー、バンド。それらが合わさってこその“沢田研二”であったように思う。ソロ初期の需要人物はアレンジャーの東海林修である。「許されない愛」(I・M10)、「あなたへの愛」(III・M12)、「危険なふたり」(I・M8)、「追憶」(I・M9)が氏のアレンジによるものだが、ソロで初めてチャート1位となった初期代表曲「危険なふたり」もさることながら、「許されない愛」と「あなたへの愛」のサウンドメイキングを特筆しておきたい。ともにサイケデリックロックである。「許されない愛」はプログレ風な箇所もあり、「あなたへの愛」は明らかにビートルズへのオマージュだ。ちなみに「許されない愛」で『NHK紅白歌合戦』に初出場していたというから、当時の歌謡シーンも決して捨てたものでもなかったようだ(無論、作曲の加瀬邦彦、演奏の井上堯之バンドも“沢田研二”を強力に下支えしていたことを忘れてはならないが、氏らはこの時期だけに参加していたわけだはない)。

井上堯之バンドと船山基紀
ジュリーを語る時、外せないのが、作詞家・阿久悠、作曲家・大野克夫、編曲・船山基紀の、言わば黄金のトライアングルであろう。「さよならを云う気もない」(II・M10)、「勝手にしやがれ」(I・M5)、「憎みきれないろくでなし」(I・M4)、「サムライ」(I・M3)、「あなたに今夜はワインをふりかけ」(I・M11)、「ダーリング」(I・M2)、「LOVE(抱きしめたい)」(I・M12)、「OH! ギャル」(II・M5)。黄金のトライアングルが大ブレイクを支えたと言って間違いない。大野氏が編曲も手掛けた「時の過ぎゆくままに」(I・M7)、「立ちどまるな ふりむくな」(II・M11)、「カサブランカ・ダンディ」(I・M1)、映画のタイアップもあって宮川泰が編曲している「ヤマトより愛をこめて」(I・M6)を含めると、約4年間にわたってこの座組で“沢田研二”を発信していた。多くの人が思うジュリーの楽曲のほとんどはこれらであろう。改めて言うことでもないが、どの楽曲も実によくできている。まず驚くのが「時の過ぎゆくままに」。これはどう聴いてもイーグルスにかなり近いバンドアンサンブルで、驚くことに「ホテル・カリフォルニア」よりも1年早い(「ホテル・カリフォルニア」は1976年、「時の過ぎゆくままに」は1975年)。また、所謂サビ頭に限らず、イントロとヴォーカルの主旋律がとことんキャッチーだ。「勝手にしやがれ」、「憎みきれないろくでなし」、「サムライ」、「ダーリング」辺りはイントロもかなり印象的なメロディーラインだし、ピアノやストリングスを含め、絶妙にヴォーカルに迫るバックのサウンドは、ただでさえ耳に入り込みやすい主旋律を流麗にしている。大野克夫のコンポーズ力、船山基紀のアレンジ力、井上堯之バンドの表現力、恐るべし…である。

阿久悠の存在感
阿久悠の作詞能力のすごさは、改めてここで説明する必要もなかろう。拙が云々するのも憚られるくらいだと思う。失礼を承知で、あえて1曲挙げるとするならば、「OH!! ギャル」を取り上げてみたい。ファンならご存知だと思うが、ジュリーは「この楽曲が最も嫌いだ」と公言しており、(ことさらその影響があったわけではなさそうだが)これ以後、シングルA面を阿久悠&大野克夫コンビが手掛けることはなくなったという、若干曰く付き(?)な歌詞だ。その女性礼賛の内容と、“ギャル”という言葉のセレクトは確かに微妙ではあるが、個人的に注目したのは、この歌詞が都々逸に近い音数律を持っている点だ。《せつない恋など知らないふりして/まだまだ気軽に落ちてはいけない/ルージュで心の熱さを教えて/蝶々を迷わす 妖しい花になる》。厳密に七・七・七・五の音数律ではないが、都々逸は男女の恋愛を題材として扱ったもので、主に女性が主役の歌が作られていたという。まぁ、阿久先生が実際に意識していたかどうかは分からないが、深い物語性のみならず、メロディーに乗らなくともリズミカルに言葉を連ねる手法にはプロの作詞家の凄味を感じざるを得ない。ついでながら、「OH!! ギャル」について一点だけ補足すると、このギターサウンドはちょっとシューゲイザーみたいで、これもまた興味深くもある。

ジュリー・ミーツ・ユーミン
東海林修が編曲を手掛けた時期から黄金のトライアングルに至るまで、「ウインクでさよなら」(II・M6)と「コバルトの季節の中で」(II・M12)という、上記いずれのスタッフのものでもない楽曲がある。これもまた見逃せない。「ウインクでさよなら」の作詞は荒井由実、そう、ユーミンであり、「コバルトの季節の中で」は作詞が小谷夏だ。小谷夏とは多くの名作テレビドラマを手掛けた演出家・久世光彦のペンネームである。ユーミンの起用は彼女がシングル「あの日にかえりたい」でチャート1位を獲得した後で、所謂ニューミュージックや、歌謡曲とは一線を画すポップスが台頭してきた時期で、ジュリーはそのテイストを取り入れている。「ウインクでさよなら」の《ベッドに 見馴れぬ コンパクト/あなたは気づかぬ ふりをする》なんて歌詞は実にユーミンっぽいし、「コバルトの季節の中で」は、やはり久世が創業した制作プロダクションであるカノックスのドラマの匂いを感じさせるものだ。この辺からは当時のジュリーの制作姿勢が流行に敏感であり、柔軟であったことも分かる。そして、その姿勢は1980年以後の“沢田研二”により強く貫かれていったように思う。

エキゾティクスとの邂逅
1980年代のジュリーは楽曲毎にその音楽性を変化させていく。まず「TOKIO」(II・M4)で世間に与えたインパクトが大きかった。パラシュートを背負い、電飾の付いたコスチュームで歌う姿はソロ期の極北であっただろう。糸井重里の歌詞も良かった。《空を飛ぶ 街が飛ぶ/雲を突きぬけ星になる/火を吹いて 闇を裂き/スーパーシティが舞いあがる》と享楽を煽るような表現を綴りながら、《海に浮かんだ 光の泡だと/おまえは言ってたね》と、後のバブル崩壊を予見していたかのようなフレーズを入れ込んでいる辺りは流石である。後藤次利のアレンジは、電子音をいかに取り込むかにおいてかなり苦心した様子は今聴いても伝わってくるが、YMOがシーンを席巻していた当時、テクノポップへの果敢なチャレンジは十分に称賛に価する。その後の「酒場でDABADA」(II・M8)以降も、“沢田研二”は変化し続けていくが、プロデューサーの加瀬邦彦と並び、この時期から井上堯之バンドに代わってジュリーのパートナーとなったエキゾティクスの存在の重要性を語らないわけにはいかないだろう。後に氷室京介のデビューアルバムのプロデューサーを務めた他、吉川晃司やウルフルズなどのアレンジャーとしても活躍することになるベーシスト、吉田建が率いたエキゾティクス。この頃の音源ではジャケットに“KENJI SAWADA & EXOTICS”とクレジットされることも多く、またジュリー本人の作曲ナンバーが増えたこともあって、エキゾティクスは俗に言うバックバンドではなく、ジュリーを含めたロックバンドだったと言える。何よりもそのサウンドは所謂バンド・サウンドそのものであった。ゴダイゴやツイスト、あるいはサザンオールスターズらがシーンでブレイクしており、すでにバンド自体が世間一般に認知されつつあったとは言え、ジュリーもそのムーブメントを加速させたことは間違いない。1980年代終盤からのバンドブームの礎だという見方も決して穿ったものではないだろう。この辺には、ザ・タイガース、PYGと何らかの因果関係があったような気もするが真相のほどは分からない。

歌謡シーンにロックを引き込む
エキゾティクスとの蜜月期は「渡り鳥 はぐれ鳥」(1984年4月発売、『ROYAL STRAIGHT FLUSH 1980-1996』には収録)まで続くが、いずれの楽曲も個性的である。ロカビリー調でスリリングなサウンドが特徴の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(II・1)や、ここに参加した白井良明がこれ以後にアレンジャーとしての活動を本格化させる「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」(III・M5)、あるいは井上陽水が作詞作曲を手掛けた「背中まで45分」(III・M4)、派手さこそないがエキゾチックなサウンドが色っぽい「麗人」(III・M7)など語り甲斐のある曲ばかりだが、個人的には作詞・銀色夏生、作曲・大沢誉志幸の黄金コンビによる「晴れのちBLUE BOY」(III・M3)を推したい。この楽曲、大村雅朗のアレンジがとにかく素晴らしい。後に岡村靖幸がカバーしたことも十二分に納得のファンキーチューンである。ポップでキャッチーではあるものの、このジャングルビートの取り入れ方は所謂歌謡曲的ではなく、少なくとも当時の歌謡シーンでは斬新だったに違いない。これだけでも“沢田研二”がかなりアーティスティックだったか分かるし、未だアイドル全盛期だったシーンで孤軍奮闘していたこともうかがわせる。また、今やロックアーティストがアイドルの楽曲を手掛けることも珍しくなくなったが、「晴れのちBLUE BOY」等でジュリーが取り組んだことはその先駆けでもあったとも言える。

現代史における最重要人物
結論付けるとするならば、ジュリーは歌謡曲全盛の音楽シーンに自ら単身乗り込み、シーンを揺さぶり続けることで地殻変動を起いこしたアーティストと言える。古今東西、多くの歌手、バンドがカバーしていることでも分かるように、ジュリーが及ぼしたシーンに与えた影響は計り知れないほど甚大だ。大袈裟でなく、現代の音楽史、芸能史における最重要人物のひとりである。本稿では“沢田研二”の音楽性の成り立ちと変遷に終始したが、ジュリー自身は1970年から作詞家、作曲家として他者への楽曲提供も行なっている。提供楽曲は、後に自身もセルフカバーしている内田裕也の「きめてやる今夜」や、アン・ルイスが歌った「ラ・セゾン」(作詞は何と三浦百恵!)が有名だ。また、同時期に映画へも出演している。しかも、それらは、粗製乱造のアイドル映画などではなく、今や邦画も重要作としてカルトムービー化している長谷川和彦監督作『太陽を盗んだ男』での主演を始め、深作欣二監督作『魔界転生』、若松孝二監督作『水のないプール』、山田洋次監督作『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』、森田芳光監督作『ときめきに死す』、鈴木清順監督作『カポネ大いに泣く』と、邦画史に名を残す監督との仕事ばかりである。最盛期には年間のテレビ出演700本以上、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日だったというが、そんな超多忙な中でのこの立ち回りは驚異的を通り越して異常であったように思う。おそらく、これから先、こんなアーティストが現れることはないだろう。ジュリーこそ、まさに稀代のスーパースターである。
※手元に『ROYAL STRAIGHT FLUSH』(I~III)しか音源がなかったため、本稿はそれに基づいて作成したが、ベストアルバムとしてはこの後に発売された『Royal Straight Flush 1971-1979』『Royal Straight Flush 1980-1996』もある(通称:“白盤”“黒盤”)。入手が楽なうえ、収録曲数も多いので、おすすめはこちら。

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