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石川島人足寄場

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 私が受験生であったころの司法試験の難関は真夏に行われる論文試験であったが、それを通過しても、口述試験が待っていた。
 合格率は高いものの、逆に落ちると恥で(その人格も見られており、落ちると人格が悪いからとまで言われることもあった)、しかも矢継早に質問が飛んでくるので、かなりの緊張を強いられる試験であった。
 ある受験生から聞いた口述試験の話である。

 選択科目で刑事政策を取っており、口述試験で「石川島の人足寄場」のことを質問された。優秀な人で、漏れなく順調に答えていって終わったかと思われたが、その設立年を問われ、「1790年です」と答えた。これで正しい。
 ところが、さらに元号で答えろと言われ、優秀な彼は「寛政2年です」と答えたそうだ。

 どうせ答えられないだろうと思っていたらしい試験官は、「元号の勉強ばかりしていたのか」との嫌味を言ったそうだ。有名な大学教授であったが、受験生からは著しく嫌われていた。自分で元号を聞いておいて、答えるやその勉強ばかりかなどと嫌味を言うとは、情けない限りである。

 その人足寄場であるが、急増する無宿人の対応に佐渡金山送りでは間に合わないことや、そこでの厳しい労働への反省もあって、長谷川平蔵の献策により松平定信が設立したものである。

 無宿人、軽い罪を犯した者、虞犯者(犯罪をするおそれのある者)を原則として3年間収容していた。だから当初は保安処分的性格の強い施設であったが、その後江戸所払いなどの追放刑の換刑としても機能していたので、懲役場の性格も有していた。

 大工、左官、紙すきなどの刑務作業を通じて、賃金が支払われていた。この賃金は、現在の刑務所の報奨金よりも、社会の相場に近い金額であったようだ。
 ただ、その3分の1が強制貯金させられる点、出所時に残金が交付される点、賃金で生活用品の自弁購入ができる点など、現在の刑務所に共通する点も多い。

 収容されている者は、柿色に水玉模様の法被を着せられていた。この水玉模様は1年を経過するごとに減少していき、最終的には柿色無地だけになる。
 そして、釈放間近になると、施設外での作業、町への買い物も許されていた。現代でいうところの、累進処遇、釈放前教育であって、これも現代に通じている。

 作業によって得られた金銭は、まずは施設の維持費用に充てられており、残額が賃金として支給されていた。この点も現代と似通っている。刑務作業の売上金は国庫帰属となるからだ。
 ただ現代の刑務所でも寄場でも、それだけでは施設を維持できるはずもない。鬼平こと長谷川平蔵が、預かっていた公金を勝手に銭相場に投機して、儲けを出すことによって、急場を凌いだ話は有名である。
 現代では業務上横領となる(老中筆頭松平の承諾を得ていたとの話もあるが、松平が承諾するとは思えない)。彼は、若き頃は無頼の生活をしていたというから、博才があったのかもしれない。

 慶応2年には、隅田川河口を通行する船の安全のために、寄場収容者によって石川島灯台が造られた。
 このモニュメントが現在の佃公園内にある。基礎部分がお城の石垣のようになっており、その上に建っているという立派なものである。
 ただ、石垣部分の真ん中が公衆トイレとなっており、見に行った私はガックリとした。誰がそのように造ったのだろうか、不思議なセンスとしかいいようがない。
 寄場送りとなり、灯台建設に尽力した収容者を馬鹿にしているのではなかろうか。

元記事

石川島人足寄場

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