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ネットで相次ぐ「殺害予告」 厳罰で応じるしかない理由とは

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 ネットの「殺害予告」が連続して事件になった。なぜ人はそんなことをしてしまうのか。どう対処すればいいのか。コラムニストのオバタカズユキ氏が考える。

 * * *
 少し前に、シールズという若者たちの社会運動団体に属するひとりの青年が、殺害予告をくらった。「奥田愛基とその家族を殺害する」という手書きの書面入りの封書が届いたそうで、青年はその旨をツイッター上で明かし、被害届を出したことも綴った。

 ネット上は騒然、「おきてはならないことがおきた!」と事態を憂う人々の悲鳴があがった一方で、「なに警察に頼ってんだよ」と青年を非難する書きこみも非常に目立った。

 後者の書き込みをした人々がアナーキストならともかく、なんだこの攻撃性の軽さは……と私は呆れた。殺害予告はりっぱな脅迫罪である。まだ容疑者は捕まっていないのだが、あれだけ騒がれた問題だ。警察はぱっぱと仕事を進めてほしい。そして容疑者が逮捕されたなら、マスコミには大々的に報じてもらいたい。

 私は知らなかったのだが、その少し前に、タレントのアグネス・チャンも殺害予告を受けていた。本人のツイッターアカウントに「ナイフでメッタ刺しにして殺しますよ」などのメンションが届いたのだ。

 これは警察捜査でじきに容疑者が突き止められた。中学3年生の犯行だった。容疑者は取り調べに「(アグネスが)慈善活動をしているのに裕福な生活をしているのが許せなかった。こんなに大騒ぎになるとは思わなかった」と供述したそうだ。

 こちらの事件もあまりに軽い。裕福な生活を送れるような余裕があるから慈善活動ができる、という世界の常識すら逆転しているところも救いがたい。実名報道して少年を懲らしめるべきだとは思わないが、重い罰則で現実を知らしめるべきだ。

 しかし、被害者のアグネス・チャンは、自分のブログにこう書いた。

〈脅迫メッセージを書き込んだ人が少年だったとのこと、とてもショックでした。何故そんな事を書き込んだのか?〉

〈インターネットは、便利で有意義な情報源ですが、一方で、事実とは違った誤った情報があふれていることも事実です〉

〈子供達には、正しい情報か、間違った情報かを見極める力を養うような教育や、ネットを利用するさいのルールを教えていくことが大切だと、痛感しました〉

 アグネス・チャンは、分かっていない。少年で未熟だから軽々しい愚行に走りやすいのだ。ネットリテラシーを云々するのもズレている。正しい教育を施せば正しい人間になる、みたいな綺麗事を信じられない人々からあなたの言動は嫌われているのだ。

 案の定、容疑者が捕まって一件落着とはならず、それ以降もアグネス・チャンに対するネットユーザーからの誹謗中傷が続いているという。今月5日、6日には、アグネス自身がツイッターで、なぜか英語を使って彼女を攻撃する連中に戒めのことばを送っている。そんな上から目線的な行動をとったら火に油を注ぐことになると気づいていない。だからまだ誹謗中傷がやまない。

 自業自得である。と言い切りたくなるが、それはNGだ。この件も、攻撃内容が脅迫罪や威力業務妨害罪などに当てはまるものなら、通報し、警察はぱっぱと仕事を進め、容疑者が捕まったらマスコミは大々的に報じるべきだ。軽々しくネットで暴力を振るうとリアルと同じように罰せられるということを、広く知らしめるためである。

 厳罰主義という批判があるだろうが、激化する一方のことばの攻撃には、スルーでかわすか、かわしきれなければ公権力を使って対抗するしかない。いちいち逮捕じゃキリがないかもしれないけれど、割に合わないと分かれば人は無闇に暴力を振るわなくなる。根絶できなくても、おそらく減る。それだけ、ことばの暴力の罪の意識が根づいていないと私は思うからである。

 ずいぶん殺伐とした考え方ではないか。殺害予告をはじめとした、きついことばの暴力を受けたことのない人はそう思うだろう。被害経験があっても、警察アレルギーがある人は違和感を覚えるだろう。「話せば分かる」的な世界観はまだ根強い。それを地で行くのもひとつの美徳だ。しかし、物事には限度があるし、この国にはニヒリズムが足りない。

 たとえば、だ。1932年、官邸に上がりこんできた青年将校らに対し、「話せば分かる」と応じた時の首相・犬養毅は「問答いらぬ。撃て」と言われて現に撃ち殺された。2003年に刊行され、400万部超のベストセラーとなった養老孟司『バカの壁』の帯には、書名よりもでっかい文字で、〈「話せばわかる」なんて大うそ!〉と書かれていた。

 よく話し合い、互いの言い分をよく知ることで、誤解が解け、あるいは相手は自分を害する者でないと悟り、分かり合えることはある。ただそれは、二人は実のところそっくりさん同士、似た者同士で心が通じ合う仲なのでした、という偶然の出会いの産物であって、いったん敵対した違う者同士はそんなにうまく折り合わない。対立の激化は互いの損だという計算がはたらいて距離を取り合う停戦はありえても、マイナスの関係がプラスに転じる和解はめったにおきないものだ。昔からそうなのである。

 なぜなら、『バカの壁』で養老孟司が言ったように、「人間というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」生き物だからである。我々は、「理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」思考回路からなかなか脱せないのだ。

 リアルの世界で接点のある生身の人間同士だってそうなのである。ならば、ネット上で考えの違う者同士が「話せば分かる」はずがない。圧倒的に情報量の少ない「ことば」のみで一方が歩み寄ろうとしても、もう一方は「バカが近づいてきた」とさらに身構え、攻撃的になるのが普通であって、なんの実りも期待できない。

 逆効果だから横を向こうと判断するほうが賢明で、多くはそうして自分と対立した者、もしくは対立しそうな者を遠ざけていく。自分と近しい者同士で群れ、群れの内部でまた自分と相手の違いを見つけ、対立して遠ざけ、そうやって群れの世界が小さくなり、究極的にはひとりぼっちになる。分かり合いたければ分かり合いたいほど、人は孤立していく。

 でも、人は一人で生きていける生き物ではない。人は誰かに認められなければ自分の存在を確かめられない。自分がどこにいるか、何者なのか分からなくなると頭がおかしくなる。空想上の友人と共に生きている人もいるが、そうした脳内バランスの維持は簡単なことじゃない。ちょっとしたはずみで、我にかえればやはり誰かとのつながりが必要となり、拒む相手を追いかけるとストーカーに、不特定多数から認められたいなどと頭に浮かんだら、それこそ殺害予告をネットに流すなどの愚行をしかねない。

 だから、話しても分かり合えない、という諦めの気持ちを各自が心のうちに標準装備しておいたほうがいい。しょせん人は一人である、でも、分かり合えるかのように思える友人や仲間や家族などはまわりにいて、その人たちのことは見知らぬ誰よりも大切にしている、というあたりがきっと落としどころなのだ。

 あるべき社会などについても、この程度に冷めた頭を作ってからのほうが、考えが前に進むと思う。


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