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Magic Architect ~ フレデリック・キースラー

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(Frederick J. Kiesler: Endless Spaceから引用)

新国立競技場が話題になっているが100年前に「マジック・アーキテクト」と呼ばれたザハ・ハディドや欧米の現代建築に見られる有機的造形を扱う先駆的な建築家がいた。

1.生い立ちとウィーン

フレデリック・キースラーは1890年にオーストリアのオーストリア・ハンガリー帝国のチェルノヴィッツで生まれ、そして1965年にニューヨークで死去した。ウィーンと言えば近代建築のパイオニアでもあるオットー・ワーグナーや「装飾と罪悪」で有名なアドルフ・ロースやリチャード・ノイトラ等の著名な建築家を生み出した町で、そして何よりも音楽と芸術の都であった。特に音楽家で言えば神童モーツアルトが有名である。その頃はロースやワーグナーも存命であり、ちょうど近代建築運動が花開く直前の時代にキースラーは生まれた。

ミース・ファン・デル・ローエはキースラーとは非常に仲が良かったらしい。ミースは1886年にドイツのアーヘンで生まれ、そしてル・コルビジェも1887年にフランスのラ・ショー・ド・フォンに生まれた。

時代背景で言うとちょうどアドルフ・ロースとワーグナーの最も優れた弟子であったヨゼフ・ホフマンがライバルとして対立しあっていた。アドルフ・ロースは建築において不要なものと考えていたので、建築を芸術と考えるホフマンは自分の考えを否定されているようで許せなかったようである。日本で言うと大正時代において「建築非芸術論」を提唱した野田俊彦による機能主義理論と「科学的芸術論」を提唱した建築は芸術とする中村鎮がこのロースとホフマンのような関係であると言える。キースラーは法律家である父にシェイクスピア劇を読んでもらうのが好きだった。キースラーはウィーンの工科大学に進んで建築を勉強し、次にグラフィックを学ぶために美術アカデミーに入学してそこで勉学にはげんだ。この頃はオットー・ワーグナーやアドルフ・ロースの影響が大きかったと言え、少なからずこの二人の偉大なる建築家はこのまだ若者であったキースラーに影響を及ぼしている。特にロースの機能主義の考えはキースラーにとって多大な影響を与えたと言えるだろう。キースラーは短期間であるが、アドルフ・ロースと共に働いていた。このロースの作風は装飾を全く排除するものであり、彼の論文である「装飾と罪悪」はロースに続くバウハウス系列のモダニズム運動に多大な影響を及ぼしている。特に近代建築の生みの親とも言えるル・コルビジェは雑誌エスプリ・ヌーボでも共著したこともあってか(たぶん前から尊敬したであろうと思われる)ロースを尊敬し、独学で建築を学んだル・コルビジェにとって師匠とも言える存在であった。キースラーはロースの思想に強く影響を受けた。そして装飾の無意味さをキースラーは学んだ。キースラーが主に手がけていた仕事は劇場建築である。これは当時のウィーンという町並みを強く反映した結果なのかも知れない。

2.背景としてのウィーン

モーツァルトやベートーヴェンで有名な、音楽の街ウィーンは、昔からドナウ河を交通の手段とした交通の要であった。すでにローマ帝国が、殖民都市をヨーロッパ各地に建設していた時から、ここは軍隊と、商人の為の拠点であり、国際都市としての性格を与えられた。そうした理由からヨーロッパの中でも比較的早くから、異質の文化の狡猾に慣れ、また自然環境に恵まれるという条件もあって、非常に開放的な都市として発展していった。ハプスブルグ家の支配した帝国の首都として、政治・経済の中心であったが、同時にこの町は、文化的な環境の場としても中心的な機能を果たしていた。ヨーロッパ近代音楽の有名な作曲家で、この「ウィーンで作品を発表しなかった人の名前を思い浮かべるのが難しいぐらいである。ウィーンの町で音楽が盛んであった理由は、王宮や貴族などの上流階級の庇護があったという理由以外に、庶民的な音楽愛好の風習から来るものであった。今日で言うポピュラーミュージックに近いものが、ウィーン市内のカフェで演奏されていた。このカフェが、ウィーン市民にとって重要な社交の場となったのは、1683年以降であり、上級階級の組織するサロンよりももっと気楽で、自由な情報交換の場として利用されていた。同じような現象は、ロンドンでは1650年以降に現れ、酒房の経営者の反対にも関わらず、ロンドン中にコーヒー・ハウスが生まれてきた。ここでも、自由な情報センターとしての機能によって利用され、イギリス市民文化の発生をうながした場といわれている。コーヒーハウス・あるいはカフェの発生は、ヨーロッパの主要都市に、都市市民階級(ブルジョワジー)という新しい階層が現れてきたことと関連し、同時にこの階級によって都市の中に、新しい文化状況が形成されてきたことを裏付けている。ロンドンのコーヒー・ハウスから、今日の新聞が生まれてきたことは、コーヒー・ハウスが、大衆社会の新しいメディアを作ったともいえるのである。この市民階級が、それ以前の文化の担い手である上流階級の保持していた劇場、美術館、音楽堂などの文化空間を占拠していく。ウィーンでもまた、モーツァルトのオペラ「魔笛」上演で有名な、劇場支配人シカネーダなどが、市民階級の趣向に合った上演企画で活躍する。ウィーンは音楽と劇を結んだ。ウィーンの劇場には、伝統的にルネッサンスの演劇の中心的な見せ場であるからくり仕掛け、スペクタクル好みがあったのである。それは主たる演劇であるコメディアの筋を追う観客をあきさせないための、余興であるインテルメッツィの方に人気が集中し、主体を食ってしまうほどになった。ウィーンの演劇好きに関して、ウィーン生まれの小説家シュテファン・ツヴァイクは、その回想記「昨日の世界」で、ウィーン市民にとって、朝の新聞で、第一に目を通す記事は、政治でも経済でもなく、演劇界に起こるニュースであると述べている。いずれにせよ、近代都市ウィーンの市民社会のコミュニケーションの場は、カフェや劇場が大きな役割をもっていたのである。       
 (環境芸術家キースラー、山口勝弘から引用)

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