掌編集『子供時代』の芯の通った大人たち

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掌編集『子供時代』の芯の通った大人たち

 ロシアについて知っていることを挙げてみる。ピロシキ。ボルシチ。マトリョーシカ。プーチン大統領。メドベージェフ首相。モスクワ。サンクトペテルブルク。ドストエフスキー。トルストイ。…もう終わった。知っているといっても、ほんとに言葉として知っているだけというレベルのものがほとんどだ。ピロシキやボルシチがどうやって作られているかもよくわからないし、サンクトペテルブルクという地名を聞いたことはあっても昔で言うレニングラードだったことも知らなかった。また、エルミタージュ美術館がロシアにあることも知らなかったし(フランスだと思い込んでた)、チェーホフがロシアの作家だということも知らなかった(東欧あたりのどこかの国の出身だと思ってた)。自分の知識不足は自覚しているが、一般的な認知度もだいたいこのくらいではないだろうか。距離的にはそんなに遠い国ではないのにあまりよく知らない国、それがロシアというイメージがある。

 そのロシアで現在最も名を知られ最も読まれている作家のひとりが、本書の著者であるリュドミラ・ウリツカヤだそうだ。初めて本書を見たとき、「あれ? いつものクレスト・ブックスより小さい(そして薄い)…」と思ったのだが、もともとは絵本なのだそうだ(←クレスト・ブックスとは新潮社から刊行されている海外小説・ノンフィクションの叢書)。通常のクレスト・ブックスと違って裏表紙にも絵があり、本文にも多くのイラストが添えられている。正直なところ、日本の洗練されたマンガやイラストを見慣れた目にはシュールでやや不気味さすら感じさせる絵の数々なのだが…(素朴な味わいのある絵とも言えるけれども)。しかし訳者あとがきによると、これらの絵は物語のために描き下ろされたものではなく、ずっと以前に描かれたものの中から物語のイメージに合ったものが採用されているそうなのだ。ウリツカヤ氏とイラスト担当のウラジーミル・リュバロフ氏は同い年であり、住んでいた地域も近所だったとのこと。とても似通っているお互いの子供時代の記憶が、大人になっても懐かしく思い出され、それぞれの文章や絵に鮮やかに反映されるようなものであるということが素晴らしい。

 本書には6つの掌編が収められており、いずれの作品も子供をめぐる物語となっている。中には困った連中も出てくるのだが、基本的には悪気のないたくましい子供たちが描かれる。個人的にはそれ以上に、子供たちを見守る大人たちの芯の通った年長者ぶりに心を打たれた。叱るべきときには叱り、子供がほんとうに困ったときには手を差しのべ、自分が間違っているときには潔くそれを認める。むやみに甘やかしたり、反対に自分の感情のままに怒鳴ったりする大人は昨今いくらでもいるが、子供のことを考えてその子にとってほんとうに必要な行動をとることはなかなか難しい。ウリツカヤ氏は1943年生まれ。著者がこの本に出てくる子供くらいの年齢だったのは、第二次大戦が終わって間もない時期かと思う。その頃の大人は現代よりももっと生きるのに必死だったに違いないし、戦争をくぐり抜けてきた中で身についた強さのようなものは確かに備わっていただろう(だからといって、単純に昔の方がよかったと言うつもりはないし、ましてや戦争があった方がいいということではもちろんない)。

 私が最も感銘を受けたのは、最終話の「折り紙の勝利」に出てくるゲーニャの母親だ。ゲーニャは生まれつき足が悪く、鼻の持病もあるうえ、父親がいないことで自分を不幸だと感じている男の子だ。近所の子供たちからもいじめられていて、同居する母方の祖母も心を痛めている。しかし、ゲーニャの母親は彼の誕生日にその子たち全員を招待すると決めた。祖母は気をもみ、ゲーニャ本人も異を唱えるが、彼女は誕生日会を決行する…。そこで起きたささやかな奇跡については、ぜひご自分で読んで確かめていただきたい。実際には事態がさらに悪化する可能性もあったと思う。だが、もし仮にそうなっていたとしても、母親が真剣に自分のためを思って行動してくれた事実はいつまでもゲーニャを支えたことだろう。自分が正しいと思ったことは、たとえどんなに困難に感じられても、勇気を振り絞ってやってみるべき時があると心に刻まれただろう。

 ひとつひとつの作品がそれこそ子供でも読めるような平易な文章で書かれているので、ロシア文学に親しむための入り口としては恰好の一冊。しかしながら1点やや困るのは、名前を観ただけではその子が男の子なのか女の子なのかピンとこないことだ。「ドゥーシャ」「ワーリカ」「ミーチカ」がそれぞれ男女どちらの名前かぱっとおわかりになるだろうか(答:順に女・女・男。もちろん読み進めればちゃんとわかることなので、ご心配の必要はありませんが)。実はNHK Eテレで放送されている「テレビでロシア語」という番組も春から見始めたのだが、出演者のおひとりであるイケメンロシア人の名前が「ミーシャ」(=ミハイルの愛称)。日本でミーシャといったら女性歌手なのに!

(松井ゆかり)

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