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ハワイで繰り広げられたA.猪木の争奪戦 豊登の殺し文句とは

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 ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、50年前の2年にわたるアメリカ遠征帰りにアントニオ猪木が日本プロレス協会を辞めた「太平洋上の略奪事件」の裏側について語る。

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 昭和41年3月、アメリカでの2年間の武者修行を終えたアントニオ猪木は、帰国途中に立ち寄ったハワイで先輩の豊登(とよのぼり)に説得され、突然、日本プロレス協会を脱退。新団体・東京プロレスへの移籍を決意した。

 これがプロレス史に残るセンセーショナルな事件として今も語り継がれる“太平洋上の略奪事件”だ。

 一体どうして、猪木は日本プロレス協会をあっさりと辞めてしまったのだろうか。23歳の誕生日を迎えたばかりの猪木に、人生を大きく変えてしまうような決断をさせた豊登の“殺し文句”とは、どのようなものだったのだろうか。

 まず、猪木がテネシーをツアー中だった昭和41年1月、猪木が滞在していたホテルに国際電話をかけてきた豊登が「新しい会社をつくる」と伝え、協力を要請したとする説がある。

 また、猪木がロサンゼルス滞在中にも豊登が猪木に国際電話をかけ、新団体設立に関する具体的なプランを話したとする説もある。

 しかし、結果的に猪木は、日本プロレス協会のアメリカ側代理人ミスター・モトの指示に従い、沖識名レフェリーに引率される形でハワイに向かった。だから、この時点ではまだ、豊登の誘いには応じていなかった、とみるのが妥当だろう。

 猪木のハワイ滞在の目的は、3月25日から開幕する『第8回ワールド大リーグ戦』に向けての最終調整。馬場は、猪木よりも早く3月9日にホノルル入りし、ベテランの吉村道明も同13日に現地に到着した。

 13日から15日までの3日間は、馬場、猪木、吉村に沖レフェリーを加えた4人がワイキキ・ビーチで合同トレーニングを行ない、この様子は東京スポーツ新聞に写真付きで報じられた。

 そして、16日夜、ホノルル市内のレストランでミーティングを兼ねた食事会が開かれ、ここで猪木は日本プロレス協会の幹部である吉村と“今後”についての会談をもったとされる。

 馬場、吉村、猪木の3人は19日夕方の便で帰国する予定だったが、同日午後、猪木から吉村に「急用ができたため、今日は帰れません」との電話が入った。同日早朝、豊登が日本からハワイにやって来て、猪木に連絡を取ってきた。

 豊登の宿泊先のホテルに足を運んだ猪木は、ほんの数時間の話し合いで豊登と行動をともにすることを決断した。1日でもタイミングがズレていたら、猪木のその後の運命もまた、違ったものになっていた可能性も否定できない。

 後年明らかになったところでは、豊登は「日本に帰っても、お前は永久に馬場の下だ」と猪木を説得したとされる。猪木は日本プロレス協会からは「必要とされていない」と感じ、豊登からは「必要とされている」と感じたのかもしれない。

■斎藤文彦(さいとう ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ――とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。

※週刊ポスト2015年7月31日号


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